だらしない…どうしようもなく、だらしのない映画だ。
レーガンが大統領に再選した1984年、映画史に残る名作が公開された。『ベスト・キッド』である。1作目公開から40年余、満を持して製作されたのがシリーズ通算6作目『ベスト・キッド:レジェンズ』だ。
非常にだらしのない映画。だらしのなさがゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどの怠惰で覆われた作品。どれだけ言葉を尽くしても言い足りない。これは単なる駄作ではない。シリーズの精神性を捨象し、自ら墓碑銘を刻む自害行為だ。
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慣れ親しんだ土地を離れ、新天地に移り住んだ主人公が孤立し、虐げられ、己の無力感を嘆く…これが『ベスト・キッド』シリーズのお約束だった。2010年に公開されたリメイク版ですら、このセオリーを愚直なまでに踏襲していた。マジョリティから逸脱したアウトサイダー。疎外され、孤立し、虐げられた、無力な「個」。1作目の主人公ダニエル・ラルーソの置かれた状況にミスター・ミヤギが同情したのは、ダニエルの抱く疎外感と孤立感こそミヤギ自身が辿ってきた道でもあるからだ。
二次大戦前に沖縄から渡米し、多くの日本人が収容所で隔離される中、ミスター・ミヤギは米軍兵士として国に忠を尽くした。日本人という同朋を殺戮し続けることで自らの愛国心を証明する必要があった。築き上げた同郷人の骸の数だけ、ミスター・ミヤギの愛国心が証明される。私は敵ではない。こんなにも多くの敵を殺したのだから。己の無害性をアメリカという国に証明するために、ミスター・ミヤギは戦争中、戦い続け、殺し続けた。
感情を殺し、自分の中の一部を鈍麻させて、同朋を殺戮する…その見返りとして彼に与えられたのは、望まぬ勲章と突然もたらされた妻子の訃報だった。武勲を飾り、愛国心を証明した報奨として彼に与えられたのは、一生癒えぬ心の傷だった。ミスター・ミヤギがその後辿った人生は、苦難の道のりだったに相違ない。
劇中、ミスター・ミヤギは自身の過去について語ることをやんわりと避け、内容はつまびらかにされないが、二次大戦終結後のアメリカ国内で黄色人種、とりわけ日本人が差別されたであろうことは想像に難くない。アメリカという異国の地で迫害され、疎外され、孤立した存在。ミスター・ミヤギがダニエル・ラルーソに同情を示し、彼を慈しみ、愛したのは、ダニエルの中に己の過去を幻視したからだ。
ミスター・ミヤギは禅問答のように、少ない言葉でしか語らない。マスター・ヨーダがそうであるように、ミスター・ミヤギもまた、多言を用して神秘性を損なうことを避ける。そんな彼が泥酔して過去の過ちと苦悩を吐露する1作目の名場面。ここでダニエルは寝入ったミヤギにタオルを掛けてやり、横臥した彼に向かって黙礼する。多くを語らずとも、ミスター・ミヤギがこれまでに辿ってきた苦悩・痛みをダニエルは確かに感じ取り、彼の人生に敬意を払う。
そう、『ベスト・キッド』シリーズとは成長譚なのだ。師匠から多くを学び、弟子が成長する物語であり、弟子と交流する中で師匠が精神的に成長する物語。師弟関係で結ばれた2人が互いに影響を与え、成長する物語。それが『ベスト・キッド』シリーズの鋳型だったはずだ。翻って本作の主人公には成長する余地がない。成長譚の核心──「弱さ」を超克した先にある「強さ」がない。最初から主人公が「そこそこ」強いからだ。
『ベスト・キッド:レジェンズ』の主人公は、物語開始時点である程度の強さを持っている。ジャッキー・チェン演じるハン師父いわく、「すでにカンフーの基礎はできている」。だから本作の主人公リーは、落ち目のボクサーであるガールフレンドの父を指導し、鍛錬する。カンフーの軽やかな動きを欲する落ち目のボクサーと、弱者の味方になりたい主人公──ここに利害関係が一致し、2人は師弟関係を築く。
映画館でこの展開を見つめながら、僕は「いったい何を見せられているのだろう」と冷めた感想を抱いた。師匠に学ぶこと、学ぶべき欠点が少なく、すでにある程度完成された主人公。まるで「なろう系」小説の主人公じゃないか。
主人公が初期段階から強い。成長譚を成立させる前提が、物語開始時点で捻じ曲げられている。『ベスト・キッド:レジェンズ』はシリーズの物語構造を破壊したのだ。
苦労して鍛錬する描写は、受け手(ユーザー)に過度なストレスを与えるので避けた方がよい。
これが「なろう系」小説のセオリーだ。令和のエンタメ最前線はそうなのかもしれないが、では40年の歴史を誇る『ベスト・キッド』シリーズはどうなるというのか。主人公が鍛錬せずに、何をするのか?
そこで本作が次善策として用意したのが、主人公のトラウマである。
殺人衝動も、仲間との不和も、事件の原因も、主要人物の裏切りも、物語的に重要なプロットのすべてを、その根拠を幼少期のトラウマに見出そうとするのは90年代の映像作品に顕著な内在論理だが、本作は令和7年・2025年の現代で、20世紀の手垢のついたトラウマ理論を持ってくる。だらしない。あまりにも短絡的にすぎる。
一人前のカンフーの使い手であり、ある程度の強さを持つ主人公が抱える唯一の弱さ──それは、実兄の死というトラウマだった。カンフー大会の帰り道、対戦相手に逆恨みされた主人公の兄は、複数人から暴行を受け、ナイフで刺殺されてしまう。恐怖に足がすくみ、兄が死んでいく様子をなす術もなく傍観していた主人公は、激しい悔悟に駆られ、大切なものを二度と失わないよう、ひたすらカンフーに没頭する。
主人公にとって、生前の兄はカンフーの師匠でもあった。自分では手の届かない高みに位置する存在から教えを乞う──シリーズが踏襲してきた師弟関係は、本作の場合、兄弟の間でのみ成立している。
物語終盤、ダニエル・ラルーソとハン師父が2人がかりで主人公を鍛錬する描写が用意されているが、2人の師匠が教えるのは「戦い方」だ。どうやって殴り、蹴り、相手の隙をつき、相手を罠にかけるか。2人が教えるのは、相手を攻略するための具体的な手練手管であり、実践に即した戦い方だ。
技だけでなく生き方・心の在り方を涵養する師弟関係というよりむしろ、スポーツで得点することに特化したテクニックを教授するコーチに近い。本作における2人の師匠は、役割的には師匠ではなく、コーチに近いのだ。では、主人公リー・フォンにとっての師匠は、どこにいるのか? それは亡き兄であり、リー・フォンにとっての師弟関係は過去の中に埋蔵されている。
従来のシリーズでは、主人公は大切なもの=仲間や自分を守るため、誇りをかけて戦に挑む。ダニエル・ラルーソが戦うのは、己自身のためであり、他人のためでもある。自分の居場所を掴むために、ダニエルは闘った。戦いの動機=大切なものを自分の居場所や他人に設定することで、従来シリーズは主人公の心の強さを証明してきた。
本作の主人公が最終決戦に挑む動機は、従来とは性質を異にする。主人公リー・フォンが戦うのは、兄の幻影を守るためだ。ヒロインでも、家族でもなく、亡き兄の幻影を、かつて守れなかった兄の幻影を今度こそ守るためだ。
かつて目の前で刺殺された兄の姿──ボクシングの試合の途上、ヒロインの父がリング上にひれ伏した時、主人公は兄の姿を幻視していた。ヒロインの父がリングで倒れ、病院に緊急搬送された後、主人公はカラテ大会出場を決意する。彼が戦うのは賞金のためでもなければ、借金にまみれたヒロインの父を救うためでもない。かつて守れなかった兄の幻影を、ヒロインの父親に重ねてしまった亡き兄の姿を、今度こそは守りたいという過去の贖罪に他ならない。
従来シリーズでは「心の成長装置」として機能していたカラテ大会は、本作では「過去に閉じた私的な感傷」へと矮小化されている。
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ここまで列挙してきたのは本作の物語構造的な破綻点だが、技巧的な拙劣さも枚挙に暇がない。
90分という短尺でありながら、冗長なプロットを並べ立て、地下鉄の背景に格闘ゲームTEKKENのポスターを忍び込ませ、その伏線回収と言わんばかりに格闘ゲームのUIを模した、戯画的な演出を本作の見せ場であるカラテ大会に持ち込み、予告編でフィーチャーしていた一番の大目玉、カラテ大会の決勝戦は上映時間に換算すると10分もないという倒錯したペース配分。
脚本家ブレイク・スナイダーが脚本の書き方指南を説いた書籍『Save the Catの法則』を、本作の脚本家は読んだのだろうか?
前述の著作の中で「真似してはならない悪例」として「氷山遠すぎ問題」が挙げられている。
内容はこうだ。もし映画『タイタニック』で、船が氷山に激突するのが映画の最後の方で描かれたとしたら…?
処女航海で沈没した豪華客船タイタニック号は、氷山に激突したことで海水が船底に浸水し、長い時間をかけてゆるやかに沈没していく。タイタニックが沈没するという映画の一番の見どころが、最後の方に用意されていたら…? 倍速視聴をためらわない現代の観客は途中で視聴を止めてしまうだろう。
本作で描かれるカラテ大会は、まさにこの「氷山遠すぎ問題」の好例なのだ。
UCLA映画学科の学生でも分かりそうだと思うのは私だけなのか?
先述した著作の中で、ブレイク・スナイダーは次のように記している。商業映画のプロデューサー達はワンラインを重視する。「それってどんな映画?」これを一行で言い表したものが業界用語で言うところの「ワンライン」だ。売れている映画、優れた映画には必ず秀逸なワンラインがある。たった一行で思わず興味を惹かれてしまうようなフック(仕掛け)が用意されている。
「夢の中に潜入する」──『インセプション』
「女二人の殺人逃避行」──『テルマ&ルイーズ』
「最初の任務は、愛した女を殺すこと」──『007 カジノ・ロワイヤル』『メタルギア・ソリッド3 スネークイーター』
『ベスト・キッド:レジェンズ』におけるワンラインとは何か?
「カラテ大会に出場し、最後には勝つ映画」
映画の本質を衝くこのワンラインを最大効果域で発揮させるためには、どういうプロットを配置すればいいか? 主人公をカラテに向かわせ、叶わない敵を倒すために特訓し、戦う。
たったこれだけのこと。これが本作が本来やるべきことなのだ。
ヒロインと繰り広げる色恋沙汰は従来シリーズからのお約束だが、ボクシングの試合をしたり、母親とチャイナタウンのお祭りに行ったり、そんな余計なことをしている暇は1秒たいともないはずだ。120分の映画なら許される。だが、本作の上映時間は96分しかないのだ。
「何を見せたいのか?」「この映画を観るために映画館を訪れるリアルタイム世代は、何を観たいのか?」
仕事として映画制作者が熟考を重ねるべき、この2点を本作の監督と脚本家は怠った。制作者のマスターベーションに付き合っているほど、現代の観客は暇ではない。日々配信される海外ドラマ、発売される新作ゲーム、友人・知人からのLINE、推し活、パパ活、マッチングアプリ…飽和状態にある余暇の手段の中から、わざわざ映画を選んで2時間ないし90分の時間、そこに全てを捧げる。本作のようなシリーズ作品なら尚更だ。生真面目な若い視聴者なら、配信サービスで過去作をイッキ見して「復習」しているかもしれない。
お前らは、そういった観客たちのことを、彼/彼女らの想いを、気持ちを、どこまで真剣に考えたのか?
ただ性欲を発散する相手が欲しいというだけの利己的な理由から、とりあえず「付き合って」と告白する大学生程度の浅慮しか持ち合わせていないであろうことは明白で、そんな鼻元思案が透けて見えるから、僕は本作の監督と脚本家に対して怒髪天を衝く勢いで憤怒し、殺意を抱くのだ。エンドロールが流れ始めた瞬間、僕はすぐに映画館を後にして、IMDbで本作の監督と脚本家の名前を調べた。スマホの画面に写った小綺麗なポートレートに激烈たる殺意を抱いた。
映画と言えど、業界人にとっては仕事である。
お客様は神様とは思わないし、金さえ払えば何を言っても許される権利があるとは思わないけれど、それでも、映画を愛する観客たちを蔑ろにするのは許せない。
ミスター・ミヤギがシリーズ4作を通して説いたのは、「心の在り方」だった。カラテとは正しい心を涵養するための修行であり、本当の強さとは肉体的な頑健さではなく、泰然自若とした平常心である。これがミスター・ミヤギの説く「強さ」だった。
観客の心を蔑ろにし、劇中人物たちの感情を矮小化し、「強さ」の在処を肉体的な強さに依拠した本作は、『ベスト・キッド』シリーズの最も大切な美点=心の大切さを踏みにじった。「心」よりも「肉体的な強さ」を尊び、それによって本作は『ベスト・キッド』シリーズの精神性すらも断絶させた。
これは単なる駄作ではない。駄作・クソ映画とは、映画の技巧的な面が拙劣な映画を指す。 本作は違う。技巧的な面だけでなく、シリーズの精神性すらも矮小化して破壊した。
そんな作品を『ベスト・キッド』シリーズの名を冠して世に送り出すということは、恥も外聞もなく、これがシリーズ6作目だと銘打って銀幕にかけるということは、シリーズの自害宣言──興行に成り果てた三島由紀夫の割腹自殺と同じである。
『コブラ会』が終焉を迎え、ノリユキ・パット・モリタ氏が逝去した今、『ベスト・キッド』シリーズは死んだのだ。