Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

鑑賞と消費の違い

先日、僕が敬愛してやまないブログ主さんとX(Twitter)で歓談していた。そこで話題にのぼったのが、数年前にベストセラーとなった新書『映画を早送りで観る人たち』だった。

それが発端となって、ここ数日で、映画の鑑賞と消費の違いについて思索していた。いつでも、どこでも、何度でも、手軽に映画を観られる現代。山崎まさよしではないけれど、向かいのホームでも、路地裏の窓でも、ショッピングモールのフードコートでも、スマホで映画を観ている人が目につく。

他方、映画館に赴けば、新作公開の映画に観客が大挙して押し寄せ、1館平均10スクリーンを有するシネコンは今日もフル稼働している。

ムーアの法則によるデバイスの高性能化と通信インフラの発展に伴い、NetflixやAmazonプライム・ビデオなどの配信サービスが登場したことで、映画を観る選択肢は激増した。その下地が整ったところでCOVID-19によるロックダウンがやって来て、自宅で映画を観るスタイルは一般に広く定着した。

そんな現況下において、「映画を鑑賞すること」と「映画をコンテンツとして消費すること」の違いについて、今一度見つめ直してみたい。

あらかじめ断っておくが、僕は、映画を鑑賞する人も消費する人も、両方いていいと思っている。(とは言いつつも、まるでスナック菓子を頬張るように、映画をインスタントに消費する人が一定数いることに寂寥感を抱かずにはいられないのだけれど……)

鑑賞と消費の違い

前述の新書『映画を早送りで観る人たち』の中で、映画を早送りで観る人と、それに対し少なからず抵抗感を抱く人の違いについて、著者は「映画に対する姿勢の違い」を補助線に引いている。じっくりと腰を据えて映画を観ることを“鑑賞”と、早送りするなどインスタントな方法で観ることを“消費”として区別している。著書の中では、早送りで観る行為を“消費”としているが、本稿ではスマホやiPadで移動時間/スキマ時間に観る行為も含める。(じゃあ飛行機の機内で観るのはどうなんだ? とか、自宅のテレビで観てる時にトイレ休憩を挟むのは? とか、そういう厳密さは求めないでクレメンス)

鑑賞も消費も、「映画を観る」行為に変わりない。だが両者は決定的に違う。何が違うのか? 両者を峻別する違いは、代替可能性にあるのではないかと僕は思う。

映画を鑑賞する人々にとって、映画は代替不可能な対象であるのに対し、映画を消費する人々にとって、消費するコンテンツは必ずしも映画である必要がない──つまり映画以外の何かに代替可能な対象なのだ。

鑑賞と消費、それぞれの違いを検討しながら敷衍していこう。

鑑賞

映画を鑑賞する人々(かく言う僕もこの種の人間)は、映画を観ることによって得られる圧倒的な没入感とそれによって生まれる疑似体験を求めている。映画ひいては物語は、まったく赤の他人に自己を投影することで作品内の世界に入り込み、そこで2時間程度の時間を過ごす疑似体験に他ならない。物理的な身体を現実世界に置きながら、少しだけ他人の人生を生きることができる──これこそ、映画を含めた物語の持つ力だ。

この疑似体験の質に大きく関わるファクターがある。現代を代表するスター映画監督にしてスクリーン原理主義者のクリストファー・ノーラン監督が、時につけ折に触れ口にする言葉──「没入感」だ。

ノーラン監督は劇場の大きなスクリーンに映された映画作品には、圧倒的な没入感が伴い、その感覚が観客を物語の世界に連れて行ってくれると信じている(数々のインタビューを参照するに、おそらくこのノーラン監督の揺るぎない信条は、彼が幼少期に『2001年宇宙の旅』を劇場で観て感銘を受けた体験に原風景を見出せる)

この没入感を獲得するためには、僕たち観客は映画と正面切って向き合わねばならず、そのためにはスマホやiPadのような小さな画面よりも映画鑑賞に最適化された空間、つまり劇場のスクリーンの方が適していることは論を俟たない。

だから映画を鑑賞したい人たちは映画館に行く。よしんば自宅のテレビで鑑賞するにしても、早送りは避けるだろう。映画を鑑賞したい人たちは、映画作品を玩味したいのであって、摂取したいのではないからだ。

批評/評論の文脈で、映画やアニメといった創作物はよく食べ物に喩えられる。これを援用するならば、映画を鑑賞したい人たちは映画作品をしっかりと味わいたいのであって、カロリーメイトやウィダーインゼリーのごとく「とりあえず栄養摂取」したいのではない、と相成る。

映画作品を余すことなく堪能したい、という欲望。その欲望から、鑑賞する人たちは映画と真摯に向き合う姿勢を要求される。すべては疑似体験を得るために。没入感が高まれば高まるほど、疑似体験の解像度が上がることを知っているから、一定以上の集中力を保って映画を観る/鑑賞する。

小説でもなく、ゲームでもなく、演劇でもなく、第七芸術たる映画というメディアでしか獲得できない、唯一無二の疑似体験がある。それを経験則として知悉しているゆえに、映画を鑑賞する人たちは映画をしっかりと玩味する。あるいは玩味しようとする。

たった2時間ないしそれ以上/以下の時間を割けば、ミラーニューロンがもたらす共感作用によって、まったく赤の他人の人生を生きることができる。その醍醐味を知っているから、映画作品を堪能しようと、鑑賞しようと欲望する。

他のメディアでは代替不可能──映画じゃなきゃダメなのだ

『市民ケーン』で「バラのつぼみ」の真意が明かされた瞬間のカタルシスも、『サイコ』のシャワーシーンにおける戦慄する恐怖も、『タイタニック』のクライマックスでディカプリオが見せる死を悟った表情も、映画以外の媒体では決して表現できない。映画じゃなきゃダメなのだ。

消費

一方、映画を早送りするなどインスタントな手段で観る人たちが映画に求めているのは、おそらく暇つぶしだと思う(僕自身、映画を早送りで観たり、スマホで観たりしたくない人種なので、これはまったく想像するしかないのだけれど…)

前述した新書『映画を早送りで観る人たち』の中で挙げられていた、映画を消費する人たちに行ったインタビューによると、友だち同士の話題、世間の話題についていくコミュニケーションの手段として、映画を消費する、という目的も一定数あるらしい。

電車やバスの移動中にスマホで映画を観ている人はどうだろう?

前から気になっていた映画が配信開始されたけど、なかなか観る時間がなくて、スキマ時間に観ている……という人ばかりではないように思う(現代人にはたしかに時間が圧倒的に不足しているけれど、全人類がそんなに時間に追われているのなら、世界は今頃もっと発展しているはずだ)

おそらく、映画をコンテンツ=情報として消費している人たちにとって、「映画」とはマンガやTiktok、Youtubeといった他のコンテンツにも代替可能な暇つぶしの手段、スキマ時間を埋める手慰みなのだと思う。

僕を含めた映画を鑑賞する人々が、映画に求める圧倒的な没入感とそれがもたらす疑似体験を彼/彼女らは求めていない。ただ空いた時間を埋める手段として、ゲームやYoutube、アニメ、友だちと遊びに行くといった無数にある選択肢の中から、たまたま映画を選んだだけに過ぎない。べつに映画である必要性がない。

つまり、映画を消費する人々と映画を鑑賞する人々は、そもそも前提も違えば目的も異なる。 まったく別の国の人同士、という感覚に近い。言語も違えば、習慣も違う、異国の人同士。

けれど、僕は別にこれでいいと思うのだ。

映画とはエンターテイメント=娯楽であり、娯楽とは余暇の時間を使う“時間の消費”に他ならないからだ。元来、映画とはそうやって発展してきたのだし、余暇の時間をどう使おうが、映画をどのように観ようが、それはまったくもって他人の領域だ。好き勝手にする権利がある。

これを映画原理主義者的な人が、「映画を早送りで観る輩は映画の楽しさを知らんからだ」とか、「そもそも作品数を観てない経験値不足だからだ」とか言い始めると、途端にきな臭い啓蒙活動になってしまう。その逆もしかりで、映画を早送りで観ている人たちが、映画と真摯に向き合っている人のことを鼻で笑えば、それは紛う方ない侮辱行為だ。

手前勝手な正しさの押し売りは、泥沼のごとき分裂と対立をもたらす。大統領選を巡って国内が二分している現在のアメリカのように。

だから、映画を鑑賞する人たちと消費する人たちは、互いに共存する道を探るのが最善策だと思う。

極言すれば、「たかが映画、されど映画」なのだ。

映画に対する熱量に程度の差はあって当然だし、そうあるべきだと思う。だって、しょせんは余暇のいち手段に過ぎないのだから。

映画というメディアが誕生して1世紀ばかり。いつの時代も映画におけるエンターテイメントとは「バイオレンスとセックス」だった。その歴史こそが、大衆娯楽としての映画の性格を物語っている。

「たかが映画だ」──そう言下に切り捨てるのは簡単だ。 けど、僕は言いたい。「されど映画なのだ」と。

映画でしか得られない、内面的な豊かさ/充足感がある。 映画には他のメディアでは表現し得ない、無窮の可能性がある。

そう信じて疑わない人たちこそが、映画館の暗闇の中でスクリーンに映った光が胸にそっと差し込んでくる、あの幸福な瞬間を味わうことができる。ひとりの映画ファンとして、僕はそう信じている。