Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

機動警察パトレイバー2 The Movie: アニメという形式の実写映画

機動警察パトレイバー2 The Movie

 

前もって断っておくが、この記事はクレイジーなほど長文である。面倒くさいと感じた方は、目次を使って目当ての箇所だけ拾い読みして頂ければ幸いである。

 

 

押井作品との出会いが私の人生を狂わせた

 

私の人生を狂わせた人間は2人いる。その1人が押井守監督。当時、純真無垢な中学生だった私の日常生活によしもと新喜劇的なノリと勢いで殴り込みをかけてきたのは他でもない、押井守その人である。

 

初めて見た押井作品は『イノセンス』だった。かつて味わったことのない映像美と、見終えた後に悶々とさせられる哲学問答、そして奇妙な感覚に陥りながらも引き込まれる独特の世界観。それらが渾然一体となって体中を駆け巡り、映画的なビッグバンを引き起こしながら私の人生を根底から変えた。あまりの衝撃に、次の日は学校を休んだ。一晩にして私の中の優先順位は「押井守 > 授業」へと変わった。まさに思春期のパラダイムシフトである。

 

どこかで見たことのあるような、そんな郷愁を感じさせる映像美。引用のオンパレードが繰り広げられるセリフ。その当時は言葉にすらできなかったけれど、これだけは確信した————これが映画なんだ、と。

 

現実と虚構、人形と身体、機械と人間、生と死————あらゆる問答が頭を埋め尽くし、挙句の果てには「どうして私は産まれてきたんだろう」とか考え始める始末。風呂に入っている時も、頭の中は『イノセンス』と押井守のことでいっぱいだった。他の考え事に低スペックな頭のメモリを消費している余裕なんてなかった。今ふり返ってみると、もはや恋する乙女である。まぁ、その相手は見目麗しいJCではなく、愛嬌のある笑顔がチャーミングなオジさんだったけれど……

 

そういうわけで、たった1本の映画が私の人生のすべてを狂わせた。押井守監督の作品を知って以来、私の人生の中で「映画」が再優先事項となった。「こんな監督になりたい」と思って映像の専門学校へ入ったのも、「机の上で教えてもらってなれるほど簡単じゃなさそうだ」と思って学校を中退したのも、今なお創作への執着を手放せず細々と小説を書いているのも、すべては「押井守 になりたい」一心からである。

 

誰が何と言おうと、押井守は日本が誇る世界一の映画作家だ。少なくとも、私にとっては永遠のヒーローなのだ。押井作品と出会わなければ今の自分は存在しなかっただろうし、これほど映画へ傾倒することもなかっただろう。自我の表面にそっとヒビをいれる程度の衝撃ではなく、自分の中の最も奥深い部分を根底から覆すほどの衝撃————『パトレイバー2』で東京を戦場へと変えた1発のミサイルと同じくらいの衝撃を押井監督は私に与えたのである。

 

押井監督を端的に表した言葉がある。

 

宮崎駿の映画は100人が1回は見る。

押井守の映画は1人が100回は見る。

 

ニコニコ大百科より

 

ジブリ映画は大衆に広く受け入れられるが、押井作品は違う。限りなくニッチな層へ、ギガドリルブレイクのごとく深々と突き刺さる。いわゆる「ハマる人はハマる」というやつだ。そして、一度押井ワールドに浸かったが最後、抜け出せなくなってしまう。気がついた時にはもう、すっかり押井ワールドの住人になってしまっているのだ。

 

かつて高校時代の国語の教師が、週末に奥さんと揃って『スカイ・クロラ』を見に行った話を教室で語った。その教師いわく「退屈で眠たくなる映画だった」そうだ。目の前に押井守のファンがいることも知らずに、平然と酷評を言ってのけた国語教師の勇敢さはジオン十字勲章ものだと思うが、教科書的で平均的な一般ピーポーにとって押井作品とは、この程度の認識にしか過ぎないのだろう。

 

だけど、間口の広さと興行収入だけで映画のすべてが決まるわけじゃない。興行収入は映画の良し悪しを測る1つのメルクマールにはなるが、数字だけがその作品の全てではないのだ。たしかに、宮崎駿さんは日本の歴代興行収入を塗り替えたかもしれない。だが、忘れられないほどの映画体験を私にもたらしてくれたのは、宮崎さんではなく押井さんの方だった。

 

『千と千尋の神隠し』は友人や家族と作品の持つ空気感を共有するのが醍醐味だが、『機動警察パトレイバー2 The Movie』(以下、パト2)は違う。友人や家族と一緒に仲良く肩を並べて見るよりはむしろ、1人でスクリーンと向き合って作品内の世界観に浸り、提示される禅問答的なクエスチョンに思考を巡らせる————この文学的な映画体験こそが押井作品の醍醐味なのだ。

 

押井作品の持つ孤独の強度は、読書のそれと等しい。ひとたび本を開けてページを繰れば本の世界が読者を包み込みんで現実から切り離すように、押井作品を観た途端に観客はスクリーンの中に広がる押井ワールドの住人となるのだ。かつて「BSアニメ夜話」で『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を取り上げた際、評論家の宮崎哲弥さんが仰っていたように「エンドロールで〈愛はブーメラン〉が流れ出した瞬間に泣きたくなる」のである。この得も言えぬカタルシスこそ、観客が押井ワールドにどっぷりと浸かってしまった証しだ。

 

タランティーノ作品がクライマックスに差し掛かった時に感じる、カオティックで正体不明のカタルシスと似ているかもしれない。どこで感動したのか、その箇所を明確に指し示すことはできないが、それでも感動して心が震えている————そんな不思議な映画体験をさせてくれるのが、押井守監督という稀代のフィルムメイカーなのである。

 

パト2はアニメの形式をとった実写映画

 

押井守監督は「アニメ」という形式で「映画」を撮る。宮崎駿監督は「アニメ」の形式で「アニメ映画」を撮る。

 

日本が誇るこの2大巨匠の作品を比較した時、浮かび上がってくるのは「(実写)映画的か否か」という違いである。押井作品は表現する形式こそアニメーションであるものの、そこで描き出される作品は凡百の実写映画以上に「映画的」だ。

 

作品内のリアリティー、細心の注意を払って設計されたレイアウト、レンズ効果、自然で説得力のある台詞回し、窓や水面への映り込みといったディテールに至るまで、これらの諸要素が押井作品に映画的な色合いを添えているのは確かだ。だが、より決定的なのは作品の中に漂う空気感である。

 

どの要素が決定打となって、この映画的な空気感を演出していると明言することはできないが、これらの諸要素が積み重なった時、劇場で上映される映像としてのアニメーションは、単なる「大きなテレビ」の枠を超えて「アニメの形式を保った映画」と昇華する。

 

押井監督のアニメーション作品は、「アニメの形式をとった映画」であって実写映画そのものとは違う。はなから実写映画で撮影すれば、『攻殻機動隊』や『機動警察パトレイバー』といったエンタメの皮を被った押井ワールドは展開されなかったに相違ない。

 

もし、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が実写で撮影されたとしたらどうなるか? そもそもの前提として、あたるやラム達のキャラクター自体が実写では成立し得ない。もし、『機動警察パトレイバー The Movie』が実写映画で撮影されたなら? 後年、押井監督自らメガホンを取って『パト2』の実写版を撮影していたが、93年に公開されたアニメ版の方がより実写映画的だった。

 

もし、香港の街中でVFXを駆使して『攻殻機動隊』が撮影されたとしたら? スカーレット・ヨハンソン主演で実写映画化されていたが、あれは『攻殻機動隊』の表層を模倣した二番煎じに過ぎない。ネオン看板がきらめく雑多な香港の空気感は、アニメーションだからこそ醸し出せた。それでいて、『攻殻機動隊』の作中に漂う郷愁的な空気感は紛れもなく実写映画のそれである。

 

そして、今回の題材となる『パト2』はというと、押井監督が独自の演出論と都市論を極限まで押し進めた「実写映画」である。アニメーションという表現形式をとった「実写映画」なのだ。

 

Spoiler Warning——以下、ネタバレを含みます

 

ストーリー

 

押井監督の作品には独特のリズムがある。アニメーションという形式でヨーロッパ映画的なリズムを刻む監督としては、『エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督が挙げられるが、押井監督のリズムはフランス映画を下地としながら独自のそれを確立している。

 

ハリウッド的なエピックな劇伴があるわけでもなく、セリフは長くて衒学的だ。だが、映画の中にたゆたう空気感というか、映像と音を通して伝わる「何か」————そのサムシングの正体こそが押井節だったり押井ワールドだったりするのだと思う。

 

ヨーロッパ映画の美的感覚とアメリカ映画の泥臭さ、日本映画の土着感。そこへ小説向けの形而上学的な思想を持ち込んで、革新的なヴィジュアルで包み込めば押井作品が出来上がる。

 

そんな押井作品の中でもひときわ実写映画的な表情を見せるのが、『パト2』である。では、一体何がこれほど映画的な空気感を醸し出しているのか? 作品を構成するパーツを分解して、その正体を探ってみよう。

 

欺瞞に満ちた平和と正義の戦争: テーマ

 

東南アジア某国で、PKOで派遣された柘植の部隊がゲリラ部隊と戦闘する場面から物語は幕を開ける。当時、世論を騒がせていた自衛隊のPKO派遣を彷彿とさせる場面である。この出来事が発端となって、柘植は東京にテロをしかけることになる。

 

そして柘植のPKO派遣から3年後の2002年、冬の東京。1発のミサイルが横浜ベイブリッジを吹き飛ばした。柘植の思惑どおり、この事件によって東京は戦場へと化した。劇中で後藤隊長が荒川に訊ねる。

 

「奴の最終的な目的って何なのかな? 奴さん一人で戦争でもおっ始めようってのか」

 

荒川がシニカルな口調で答える。

 

「戦争だって? そんなものはとっくに始まってるさ。問題なのは如何にけりをつけるか、それだけだ」

 

この場面では虚を突かれた様子を見せる後藤さんだが、後のシーンで海法総監を前にして荒川と同じ趣旨のセリフを言っている。

 

海法総監「何の話だ。少なくともまだ戦争など始まってはおらん」


後藤隊長「始まってますよ、とっくに。気付くのが遅すぎた。柘植がこの国へ帰ってくる前、いやそのはるか以前から戦争は始まっていたんだ」

 

この間にどういう経緯で後藤さんの考えは変化したのか? その呼び水となったのは、建設中のレインボーブリッジを見上げながら荒川と後藤さんが展開する「正義と平和」についての議論に他ならない。

 

欺瞞に満ちた平和と正義の戦争————荒川は言う。

 

「血まみれの経済的繁栄。それが俺たちの平和の中身だ、戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な代価をよその国の戦争で支払い、そのことから目を反らし続ける不正義の平和」

 

人類がこの世に生を受けてこの方、常に世界のどこかで血が流れ続けてきた。今こうして私たちが安穏と暮らすことができるのも、先の世界大戦を経て先進国が「戦争は割に合わない」と気づいたからだ。一見すると平和そうに見える先進国は膨大な数の骸によって支えられている。そして、自分たちが戦争の傷跡から立ち直ったら、他の国で起こる戦争には無関心を装う。

 

荒川は続ける。

 

「単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実態としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか? その成果だけはしっかり受け取っていながら、モニターの奥に戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れたフリをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される」

 

あんたらが今日ものうのうと平和を享受している陰では、前線で死んでいる人々がいるのだと、荒川は言う。テレビやネットでアフガニスタンの紛争を見て、「かわいそうだ」と言うのは容易い。だが、この一時的な感情はすぐに忘れ去られる。忘れるつもりなどなくとも、やがて情報の海に飲み込まれて記憶の彼方へと押しやられるだろう。

 

大半の人は「かわいそうだ」と言うだけで、その感情は一時的なものだ。実際に行動に移す人などほんのごく僅かで、それでいて自分たちの平和は当然の権利として享受している。先進国に見られるこの姿勢を、荒川は「不正義の平和・欺瞞に満ちた平和」と言っているのだ。

 

そして、モニターの奥に戦争を押し込めて居直りを決めこむ日本人の目を覚ますべく、柘植は東京にミサイルを放った。荒川の言う「罰が下される」とは柘植のことだ。

 

後藤さんは言う。

 

「そんな、キナ臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争よりよほどマシだ」

 

正義の戦争————例えば、イラク戦争。自らの正当性を盲目的に信じ、世界一の先進国としてのプライドを守るために後先顧みずイラクへと侵攻したアメリカ。例えば、第二次世界大戦。負け戦と端から分かっていながら、有望な若者たちを死地へと送り出した日本。自らの無謬性をを信じ、それを他者へも強要する。戦争は始めたが最後、いざ事が起きれば「やった・やられた・仕返した」の連鎖が果てしなく続く。両者ともに「自分は間違っちゃいない」と主張し、自らの行いを正当化する。

 

そして、「不正義の平和と正義の戦争は同じことだ」というのが荒川と柘植の考えだ。何もしないで手をこまねいて戦争から目をそらす不正義の平和は、間接的に戦争をしているのと同義だと。東京の街で何食わぬ顔して平穏に暮らすのは戦争をしているのと同じことなんだと、彼らは主張する。

 

「幻の平和であろうと、それを守るが自分の職務だ」と後藤さんは言う。
「幻の平和であろうと、それを現実として生きる人々がいる」のだと、しのぶさんは柘植に諭す。

 

ラストシーンで明かされる、3年前に柘植からしのぶさんに送られた手紙の内容が人間の卑小さを暗示する。

 

我地に平和を与えんために来たと思うなかれ。我汝らに告ぐ。しからずむしろ争いなり。今から後一家に五人あらば、3人は2人に、2人は3人に分かれて争わん。父は子に、子は父に。母は娘に、娘は母に。

 

ルカによる福音書 12章49節

 

聖書の恐ろしいところは、前後の文脈をすっぱ抜いて目当ての箇所さえ引用すればいかようにも解釈できる点である。だからこそ、犯罪者たちは聖書を引用して自分たちの思想を補強しようとする。この一節も、前後の文脈が無いのできっぱりと言い切るのは難しいが、この箇所だけを読めば「争うのが人の(さが)である」と解釈できる。人々が互いを疑っていがみ合い、やがて破滅していく姿は黒澤明 監督が『乱』で描き上げたが、パト2では大きな疑問符を提示するに留まっている。

 

『パト2』はここでエンド・クレジットに入るが、果たして柘植のメッセージは都民に伝わったのだろうか。それは想像に任せるしかないが、少なくとも後藤さん、しのぶさん、そして『パト2』を見た観客には一石を投じたはずだ。

 

自衛隊vs警察組織

 

かつてGoogle Mapの講演にて、押井守監督は冗談まじりにこう言っていた————「渋谷の街中できれいな姉ちゃんを撮っても映画にはならない。だけど、街中に戦車を1台置けば映画になる

 

押井監督の創作過程は、まず語りたい世界観や設定があり、それからキャラクターがあるというアブノーマルな順を経る。今回もその例にもれず、「東京に戦車を持ち込みたい」という状況が先にあって、そこからリバースして「自衛隊vs警察組織」という構図が出来上がったのではないか。

 

最も合理的かつ現実的な理由で、東京の街中に戦車を持ち込むには「治安出動」しかなかったのだ。

 

補足:治安出動とは

内閣総理大臣は、「間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる場合」には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる(自衛隊法78条1項)。同条に基づく治安出動を「命令による治安出動」という。

 

治安出動までのタイムテーブル

 

  • 幻の爆撃「スクランブル騒ぎ」
  • 三沢の各飛行隊に飛行禁止命令が出される
  • 抗議に赴く基地司令を、基地ゲート前で青森県警が連行する
  • 三沢基地は外部との通信を遮断。実質的な籠城に入る
  • 陸自の各基地もそれに呼応する
  • 警備部に警備出動命令が下される

 

こうして、「警察組織vs陸自」という対立構造が出来上がった。警備部長はこの混乱に乗じて点数を稼ぎ、警備部の権限を拡大しようという魂胆だ

 

  • 籠城の責任を取って陸海空の幕僚長が一斉に辞任。ベイブリッジを爆破したのが米軍機であるとバラそうとする。
  • 政府は事態を混乱させた警察を逆恨みする
  • 警察に見切りをつけ、治安出動命令を下す

 

かくして、東京の街中に戦車が持ち込まれることになる。

 

これまで、日本で治安出動命令が下されたことは一度もない。だが、もし実際に下されるとすれば、何らかの事象によって警察組織だけでは手に負えないと政府が判断した場合である。押井監督は警察内部の社内政治に目をつけた。身勝手な思惑から出た勇み足を引き金にして、警察組織にドジを踏ませることで、もっともらしい理由をつけて「治安出動命令」を出したのだ。

 

都内に陸上自衛隊が流れ込むということは、柘植のシンパが紛れ込んでいたとしても見分けがつかないということになる。つまり、事態の解決を急ぐあまり、政府は事態をより悪化させたのである。いつ何時、柘植のシンパが行動を起こすか分からない、まさに一触触発の状態が今まさに始まろうとしていた。

 

そしてその頃、世間に失態を晒した警察組織内部はというと……

 

個人vs組織 : 組織の中で

 

しのぶさんは上層部に無断で、神奈川県警 交通機動レイバー隊へ出動命令を出した。こんな明らかな越権行為をしでかせば、上層部から呼び出しを喰らうのは避けられない。だが、これこそがしのぶさんの狙いだった。

 

要するに「お前ら、いい加減にしろよな」と一発どやしに行ってやろうと、いかにもしのぶさんらしい気の強さである。

 

劇中で荒川が言うように、「悪い軍隊なんて物はない。あるのは悪い指揮官だけ」なのだ。自分たちの身勝手な言動は棚上げして、しのぶさんの意見に耳を貸そうとしない上層部のオヤジたちは、のらりくらりと論点をはぐらかしながら、体裁だけは立派な空疎な主張を繰り返す。極めつけは海法総監である。

 

「防衛庁内部には警察のOBも多数いることを知らんわけではあるまい。ことは既に政治の舞台に移された。今は彼らを刺激することなく、その行動において協調を図り、撤収の早期実現を模索すべき時だ」

 

それっぽく聴こえるが、よくよく吟味してみると「結局何もせずに事態を見守る」というのと大差ないのが分かる。いかにも政治家が使いそうな詭弁である。警察組織という旧態依然としたお役所。その中で「個人の正義」と「組織としての思惑」が激しく衝突する。その後も一向に腰を上げようとしない上層部に対し、いよいよ愛想を尽かしたしのぶさん。後藤さんもそれに続く。

 

「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代わる。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ」

 

ジェイムズ・F・ダニガンの『新・戦争のテクノロジー』の引用であるこのセリフが決定打となって、特車2課は警備部と袂を分かつ。劇場版1作目の時のように、上層部を言いくるめて許諾を得ることもなく、完全な独立愚連隊として柘植の逮捕に踏み切ったのだ。

 

そして、楽観主義にどっぷり浸かった上層部に「東京湾横断橋が爆破された」という報告が入る。まさに寝耳に水といった様子のオヤジたちを前に、かつて見せたことのない剣幕で後藤さんが怒鳴るのだ。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

© 1993 HEADGEAR / BANDAI VISUAL / TFC / ING

「だから! 遅すぎたと言ってるんだッ!!!」

 

押井作品の中で最も人間くさい映画: 忍ぶ恋

 

『パト2』は押井作品の中でも最も人間的な薫りがする作品である。押井監督は、インタビューでたびたび「キャラクターに興味はあるが、人間には興味がない。だからウディ・アレンは嫌いだ」と言っている。もっとも、近年は考え方が変わってきたらしくNHKで放送された『絶対監督主義 シネマラボ 押井守たちの挑戦』では、「役者と一緒に仕事をするという事を考え始めた」と語っている。

 

『パト2』の冒頭、いつもどおりハゼ釣りに興じる後藤さんの元へ特車二課の隊員がやってくる。「あの、定刻を過ぎましたので、第1小隊に待機を引き継いで帰宅しても……」と切り出す若手の隊員に、「ま、いいんじゃないの。俺も残ってることだしさ」と答える後藤さん。隊員を笑顔で見送った次の瞬間、すっと真顔に戻って「いいわけないじゃないの……」とつぶやく。このギャップが人間くさいというか、『エヴァンゲリオン』の加持さんの言を借りれば「人間的にリアル」というか。

 

だって、人って往々にしてこういう振る舞いするじゃないの。

 

社会で器用に生きていくためには、時には口腹別男を演じる必要もある。こと後藤さんに関して言えば、TV版・OVAの時から「道化を演じられる賢さ」を持った人物として描かれてきたが、『パト2』においてはそれを更に洗練して主人公に相応しい人間的なリアリティーを獲得している。

 

松井刑事がベイブリッジ爆破のビデオを押収しに向かった映像プロダクションのスタッフも、じつに人間くさい。松井刑事の質問に、面倒臭そうに答える口調は世間ずれした人となりを感じさせる。このシニカルな話し方のキャラクターは、『イノセンス』のハラウェイを彷彿とさせる。

 

いかにも胡散臭い雰囲気を漂わせている荒川(モデルとなったのは押井監督の大学時代の知人である)、小太り気味だが確かな捜査手腕を発揮する松井刑事、そして本作の主人公兼ヒロインであるしのぶさん。

 

どのキャラクターもそれぞれが強烈な個性を放ち、人間味にあふれている。

 

また、人間味という点ではしのぶさん、柘植、後藤さんの恋模様も忘れてはいけない。それとなく相手に悟らせて、決してこちらからは押しかけない————『葉隠』で示された「忍ぶ恋」の関係性が、この3人を取り囲む。

 

行方知れずだったかつての想い人が、もしかすると今回の事件の首謀者かもしれない。個人的な想いと職責の葛藤を抱えながらも、一縷の希望を捨てずにいるしのぶさん。そんな彼女を見て、いたたまれない気持ちになりながらも、何も言わずにそっと見守る後藤さん。そして、未だにしのぶさんに想いを寄せながらも、自らの使命を達成することを優先した柘植。3人の微妙な心の動きが、セリフではなく演技や表情で示されている。

 

本編中盤、柘植と逢い引きするシーンで、しのぶさんは拳銃を構えるも引き金を引けない。この直後、警備部の会議室で上層部に食って掛かり警察を辞めようとするしのぶさん。そんな彼女に対して、後藤さんは「今は降りちゃダメだ。奴を止めることはできなかったけど、俺達の勝負は終わっちゃいない」と励ます。これが同僚としての言葉なのか、公私がないまぜになった言葉なのかは分からない。

 

だが、埋立地へと赴く直前のシーンで、後藤さんは彼女に個人的な言葉をかける。

 

「しのぶさん、刺し違えても、なんてのはごめんだよ。彼を逮捕して必ず戻るんだ。俺待ってるからさ」

 

後藤さんの心情を知っているであろうしのぶさんは、何も言わずにその場を立ち去る。そして、ラストシーンで柘植としのぶさんの2人は、しっかりと手を握り合っている。ヘリが近づくと、すっと手を離して手錠をかける。だが、その一連の成り行きを後藤さんはヘリから見ている。

 

そして、特車2課の隊員たちを見てつぶやくのだ。

 

「結局、俺には連中だけか」

 

再結集した特車2課第2小隊のメンバーを見て、最後に頼れるのは彼らだけだと感慨に耽っているのか、もしくは、はかなくも絶たれた恋を自虐的に言っているのか、どちらともとれるセリフである。

 

若者の惚れた腫れたのような瑞々しさは微塵もない。ひたすらに「待つ恋」————忍ぶ恋である想いの丈を直接伝えることなく、それとなく相手に悟らせる静かな恋の駆け引き。これこそ日本の美徳とされる奥ゆかしさではなかったか。

 

人間に興味はないと公言しながらも、結果的に極めて人間くさいドラマを描き上げた押井監督の手腕には、ひたすら脱帽するばかりである。

 

この映像美、もはや実写である

 

『機動警察パトレイバー』シリーズは、SFアニメとして際立ったリアリティーを持っている。SFモノに限らず、フィクションの物語には現実味が必要だ。現実味がなければストーリーに説得力が無い。説得力があり続ける限り、観客は空想の世界をさも現実のごとく受け入れてくれる。だが、ひとたびリアリティーを失えばフィクションの世界はあっという間に崩れ去ってしまうだろう。

 

『パト2』では、TVシリーズ・OVA・劇場版1作目から受け継がれてきたリアリティー溢れるディテールを更に進化させた。それを支えているのが、偏執狂的なミリタリーへのこだわりと、綿密なリサーチ(ロケハン)、レイアウト段階で作り込まれた画面設計、レンズの選択やライティング、フレーミングからパースなどの諸要素である。もはや実写映画ではないかと言いたくなるような、気の遠くなるような作業だ。

 

アニメの場合は実写映画と違って、カメラを回すことで意図せずして写り込んだ副次的な産物が存在しない。アニメの場合はすべてを想像して、あらかじめ意図的に入れておかなければならない。実写映画のように、意図せずして画面に写り込んだ景の建物や、風に揺れる洗濯物といったものは存在しないのだ。逆の見方をすれば、画面内のすべてを思いのままにコントロールできるということであり、これこそがアニメをつくる意義だと押井さんは語っている。

 

だが、近年はVFX技術の発達により実写映画でも比較的容易に画面内を操作できるようになった。そんな状況も相まってか、近頃の押井監督は実写映画に傾倒している。

 

そして、『パト2』のリアリティーを演出している最大の要因は実写的なレイアウトに他ならない。

 

『パト2』のレイアウトは実写映画を超越する

 

元々、『アルプスの少女ハイジ』で高畑勲監督が定着させた「レイアウトシステム」。押井守監督は、前作『パト1』から劇場作品において本格的にレイアウトシステムを採用している。アニメーションのレイアウトとは、フレームサイズ、構図はもちろんのこと、ライティング、背景、特殊効果、など画面を構成するあらゆる要素をあらかじめデザインしておく作業である。

 

ともすれば、レイアウトを描くアニメーターはカメラの知識はもちろんのこと、パースなどの背景を描くスキル、ライティングを考えるスキル、そしてキャラクターを描く画力と、実に高度な能力が要求される。あまつさえ、『パト2』のような実写映画的な画面を設計するとなると尚のことである。

 

『パト2』のレイアウトを収録した『Methods 押井守「パトレイバー2」演出ノート』で、押井監督は「なかなかきちんとしたレイアウトを描けるアニメーターがいない」とぼやいていたが、さりとて仕方のないことだと思う。『パト1』の時には、レイアウトに今敏さんが参加していることからも、いかにレイアウト担当者に求められるスキルが高いかが分かるだろう。

 

たとえば、『パト2』で頻繁に登場する車内のシーンをとってみても、その実写的な空間の演出が目につく。冒頭で、荒川の運転する車でドライブするシーンでは、シートの大きさと前後座席のスケール感、車窓から見える建物の遠近感、そして狭すぎず広すぎない現実的な車内の空間————あたかも車内にカメラを置いたかのような、確かな空間を感じさせる画面設計である。

 

また、海法総監の前でブチ切れた後藤さんとしのぶさんが、ミニパトに乗って警視庁を後にする場面では、横並びに座った2人と車窓の外を流れる建物のスケール感が絶妙である。レイアウト段階で綿密に設計された画面は、1枚の止め絵でも十二分にスクリーン上映に耐えうる説得力を持っている。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

© 1993 HEADGEAR / BANDAI VISUAL / TFC / ING

コンビニにブチヤマが乗り込んできてヘルメットいっぱいに入った小銭をレジに置く場面や、壊された松井刑事の車の運転座席の場面で、1枚絵の止めの構図が使われている。

 

止めの1枚絵でも十分に説得力があるということは、実写映画のように同じ構図で長回しで撮影してもスクリーンの要請に耐えうるということだ。陸自の基地前で不本意ながら警備を行う後藤さんが、車内で荒川と電話をする場面や、本庁での講演を終えたしのぶさんがエレベーターで昔の同僚と語らう場面で、その効果が発揮されている。

 

長回し撮影は押井監督の十八番である。これと同じくらいの頻度で登場するのが、会話の場面でキャラクターの口が見えない構図である。DVDなどに収録されているオーディオ・コメンタリーやインタビューで、キャストの方々が異口同音に言及しているが、役者にとってはこれ以上演じ辛い構図はない。アニメーションのアフレコは、完成された(製作スケジュール上、間に合わなかった場合には原画やコンテ絵のこともある)動画の口パクを見ながら声優さんがセリフを吹き込む。

 

この口パクにしても、事前に演出家ないしアニメーターの方々が実際にセリフを読み上げながらタイムシートを打って調整してある。だが、口が見えないということは、本来ガイドライン的な役割を果たすはずの口パクが一切見えないということであり、どんなペースでセリフを言えばいいのかは役者さんの体感にすべて委ねられることになる。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

© 1993 HEADGEAR / BANDAI VISUAL / TFC / ING

『イノセンス』ではハラウェイのオフィスを後にしたバトーとトグサが車に乗り込んで話す場面で、2人を後部座席から捉えたショットがある。『パト2』では本庁のエレベーターでしのぶさんと、柘植学校の生徒が談笑するシーンが最も印象的だ。他にも、車内で滔々と語る荒川や、映像プロダクションのスタッフなど、『パト2』には正面を向いたまま喋り続けるキャラクターが多い

 

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の有名なシーン————サクラ先生と温泉マークが喫茶店で話す場面は、役者泣かせ以外の何物でもないと思う。撮影担当の方も相当大変だったとは思うが……

 

このような実写的な演出が可能になるのも、すべてはレイアウト段階で緻密に設計された画面があるからである。『パト2』でのレイアウト作業を経て、押井監督は「アニメにおけるレイアウト論」を確立したらしく、その詳細は先述の『Methods 押井守「パトレイバー2」演出ノート』に詳しい。何度か再販されているが、次の再販がいつになるのか分からないので、多少値は張るがいっそのこと中古で買ってしまうのが手っ取り早いと思う。かくいう私も、友人に借りパクされて以来再購入していないのだけれど。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

© 1993 HEADGEAR / BANDAI VISUAL / TFC / ING

『パト2』の中で素人目の私にも分かるほど、映画的なショットがある。冒頭、野明が操作するシュミレーション機が腕を動かすショット。ほんの僅か数秒のショットながら、画面越しに伝わってくる重量感と、奥行きと体積を感じさせる立体感に目は釘付けになった。

 

レンズの選択: ギャグとしての広角レンズ

 

『パト2』の映像が革新的だったのは、映画的なレンズの使い方である。押井監督が好むギャグのシーンで、コミカルな演出をするために広角レンズを使うのは『パト1』でも確認できるが、『パト2』ではそれを更に押し進めた。

 

  • オープニングの東南アジアのシーンでは、ヘッドギアを被った柘植の目を広角レンズで超クローズアップする
  • 本庁から特車2課へと帰るしのぶさんが車を走らせる場面では、広角レンズで背後の風景と車を大きく捉えている
  • 本庁の会議室で考え事に耽っている後藤さんは、広角レンズの特性で顔が大きく歪んでしまっている
  • 「幻の新橋駅」へと移動するイングラムを載せた貨物列車が通過する際には、リュック・ベッソンの『サブウェイ』のように広角レンズでスピード感を演出している

 

そして、『パト1』で使われていた「ギャグとしての広角レンズ」は本作でも使われている。訓練学校で大田が生徒を怒鳴りつける時には、豚のように大きく歪んだ顔が映し出される。中でも特徴的なのは、荒川の登場シーンである。荒川・後藤さん・しのぶさんの3人がテレビ画面を見つめる姿を広角レンズで捉えたショットだ。このショットは、3人が私たち観客を覗き込むという面白い構図を取っている。キャラクターたちに覗き込まれるという感覚は、『タクシードライバー』で観客の心臓に拳銃を向けるロバート・デ・ニーロにも似た、そこはかとない居心地の悪さを感じさせる。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

© 1993 HEADGEAR / BANDAI VISUAL / TFC / ING

 

南雲「このテープでいいんですか」
荒川「いいんです、これで。」
後藤「この曲俺歌えるわ。」
荒川「まぁ、この辺はどうでもいいんですが、歌いますか?」
後藤「マイクないんだよね。」
荒川「じゃぁ、飛ばします。」

 

押井監督の仕掛けるギャグは、コーエン兄弟のユーモアに通じるシュールな笑いを誘う。

 

劇場アニメーションで大々的に実写映画のレンズ効果を持ち出したのは、おそらく押井監督が初めてだと思う。『パト2』の5年後に公開された『劇場版 機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-』では、本作と同じような文脈で広角レンズの特徴的なレンズ歪曲が演出的に使われている。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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特徴的な広角レンズに対し、望遠レンズで撮影されたショットは実写映画でも場面によっては判別し辛い。『パト2』では、松井刑事が映像プロダクションへと向かう高速道路の場面や、飛び立ったヘルハウンドを捉えたショットで使われている。

 

個人的に気に入っているのは、荒川の車でドライブするシーンで使われるレンズのボケである。したり顔の荒川に焦点を合わせることで、強制的に観客の支線を荒川の表情に向けるのだ。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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だが、ここで注目すべきは荒川のドヤ顔ではなく、ボカされた荒川の背後である。恐ろしく的確でリアルな車内の空間もさることながら、きっちりと表情まで描かれているであろう しのぶさんの表情がボカされているのだ。作画スタッフからすれば、「せっかく描いたものをボカしやがって!」と憤懣遣る方無いだろうが、このショットが映画的なのはひとえに作画スタッフの尊い犠牲によるものだと思うのだ。

 

光と陰と映り込み: 情報量のコントロール

 

押井作品で描かれる「陰」は容赦なく真っ黒である。新海誠監督のような、様々な段階を経た陰ではなく、容赦なく真っ黒なのだ。薄っすらと暗いとか、気持ち暗めとか、そんな生半可なもんじゃない。

 

たしか、どこかのインタビューで真っ黒な陰を使う理由を語っていたはずなのだが、詳細が思い出せない。これは勝手な推測だが、実写映画的なコントラストを獲得するためには真っ黒な陰が最適だったのではないだろうか。

 

実写映画は映像フッテージへカラーグレーディングなどの調整を施して、色合いやコントラストを調整する。アニメーションの場合は、基本的に色彩設計ですべてがまかなわれる。ともすれば、色彩設計の段階である程度の実写的なコントラストを獲得するためには、極限まで陰を黒くする必要があったのではないか。

 

押井監督は「アニメーションの演出とは情報量をコントロールすることである」と語っている。「引き算的に情報量をコントロールすることこそが、(アニメーション)演出の本質なのだ」と。

 

実写映画とアニメーションの映画を比較した時、画面内に存在する情報の量ではアニメは実写映画に劣る。画面内の情報量が増えれば映像的にはリッチに見えるが、多すぎれば観客は混乱する。洋画のサスペンス物などでは、意図的に画面内の情報量を増やして観客を混乱させ、1ショットあたりの体感時間を短く感じさせるテクニックを使うものもある。

 

  • 画面内の情報量が増えれば、1ショットあたりの体感時間は短くなる。
  • 逆に、画面内の情報量が少なければ、1ショットあたりの体感時間は長く感じる。

 

『去年マリエンバートで』などの斜め上を行く前衛映画が、一般観客の眠気を誘うのはこれが原因である。

 

実写映画と比べて、圧倒的に情報量で劣るアニメーションで果敢にも情報量を増やそうとするとどうなるか? 『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』のにおける香港の街のシーンのようになる。看板やネオン、建物、人————これでもかと言わんばかりに情報量を詰め込んだ結果、ストーリーが進行しない「ダレ場」であるにも関わらず、視覚的に飽きさせないリッチな映像が出来上がった。

 

ともすれば、画面内の情報量を意図的に削る目的で陰を真っ黒にしているとも考えられないか? 引き算的な演出が持論の押井監督は、ミニマリストが余白を好むように、観客の視線を余計なところへ向けさせないために余白的な使い方で「真っ黒な陰」を使っているのではないか。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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また、情報量のコントロールという意味において『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』から採用されている「鏡への映り込み」も見逃せない。特車2課のオフィスの窓への映り込み、荒川との水族館での会話シーンでの映り込み、飛行船がビルの窓ガラスに反射して出来る虚像。これらの映り込みは、画面内の情報量を増やす重要な要素である。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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情報量を増やす目的としては、他にも「CGを駆使したインターフェイス」が挙げられる。PKOで派遣された柘植のレイバーのコクピット。そこで映し出されるインターフェイスはCGを駆使して、リアルに描写されている。野明の乗るシュミレーション機体のインターフェイスも、戦闘機のコクピットも、インターフェイスには情報が多い。多くは文字情報だが、ひとたび画面内に収まればその密度は圧倒的である。「スクランブル騒ぎ」で描かれる中空SOCの管制室には、文字情報がびっしりと詰まっている。また、18号埋立地へと向かう直前のブリーディングでは、連絡通路の構造がCGによって視覚的に説明される。

 

線で描画するアニメーションだけでは限界がある画面内の情報量を、CGによって増幅する。公開当時で考えると画期的なCGの使い方である。

 

時間と空間の演出: ダレ場の必要性

 

押井守監督いわく、「映画の演出とは【時間と空間】を演出すること」だという。では『パト2』における「時間の演出」とは一体どんなものだったか。

 

思えば、『パト2』が始まってすぐに前作から数年の歳月が過ぎたことが感じ取れる。各キャラクター達は別の部署に異動しているし、特車2課には後藤さんとひろみちゃんしか残っていない。榊さんは引退して、シゲさんが後を引き継いでいる。あれだけイングラムに夢中だった野明は、その熱意も冷めてしまっている。

 

たったこれだけの描写で、何の説明がなくとも長い時間が経過して状況が変化したことが分かるのだ。

 

また、クライマックスで再び特車2課第2小隊が集う場面では、この心境へ至るキャラクターの心理描写はほとんど描かれていない。にもかかわらず、このシーンが成立するのはOVAからTVシリーズ、劇場版1作目と、連綿と続いてきた作中での時間経過があるからこそである。これだけ長い時間をキャラクター達と過ごしてきた観客は、もはや余計な説明など無くとも彼らの行動心理を理解できる。

 

これらは長い時間を圧縮してみせる演出である。映画の中で流れる時間は自在に圧縮したり、伸ばしたりできる。時間と空間を自在に操ることができる————これこそ、映画という媒体の最大の武器である。D・W・グリフィスに始まって1世紀強、数多くの名作映画がこの映画のマジックを活用してきた。近年ではクリストファー・ノーラン監督がこのマジックを巧みに使って、革新的なストーリーテリングを披露している。では、『パト2』における「時間の引き伸ばし」とは何か?

 

「ダレ場」「黄色い飛行船」である。荒川と電話で話している後藤さんの背景を黄色い飛行船が横切っていく。一見すると、静止画のように見えるこのショットで時間の経過を示すのが、この黄色い飛行船なのだ。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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アルフォンソ・キュアロン監督のネットフリックス映画『ROMA / ローマ』では、謎の武闘家がポーズを決める場面で同様の演出が使われている。また、押井守監督の『スカイ・クロラ』では、この演出を活用して茫洋たる時間の流れを演出しようと試みている。

 

押井作品の刻印でもある「ダレ場」も、時間を引き伸ばす演出の1つだ。押井監督は、神山健治監督との対談の中で「ダレ場はストーリーを整理するために必要なもの」だと定義している。

 

たしかに、ストーリーを整理するという効果もあるが、観客視点で見れば「ダレ場」がもたらす効果は「時間の引き伸ばし」にあると私は思う。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』以降、ほぼすべての押井作品で「ダレ場」が使われている。この「ダレ場」によって、映画内の時間にブレーキがかかって引き伸ばされる。これは私の勝手な理由付けなのだが、「ダレ場」によって時間を引き伸ばすことで、否応なしに観客を作品の世界観や空気感に触れさせることができる————これこそが、観客目線でのダレ場の必要性なのではないか。

 

どうして、押井作品はあんなにも作品内の香りや空気感を感じ取れるのか。たしかに、アニメーション作品ながらロケハンを行っているという点も大きいが、それだけではないと思うのだ。ロケハンによって質感豊かに仕上がった背景美術も、その魅力を堪能するための「場」が無くては宝の持ち腐れである。

 

「ダレ場」とは、観客の頭をわしづかみにして無理やり水面に押し付けるようなものだと思う。一旦ストーリーの進行を止めて、観客を立ち止まらせ、有無を言わさずに作中世界の風景を見せる。これによって、観客はあたかも作品内の世界を散策するかのような感覚を抱く。

 

思い返せば、『攻殻機動隊』では船に乗った素子が香港の街中を散策していたし、『イノセンス』では鳥の視点で択捉経済特区の上空を飛び回っていた。『パト1』では松井刑事たちが帆場の住居を探して歩く。そして、本作『パト2』では、東京の工場地帯を情景的に切り取り、戦場と化した東京の街をカメラが私たちと同化して、為す術もなくただ見守っている。

 

この散策の時間こそが、押井ワールドを形作るために必要な時間なのだと思う。

 

音と音楽の演出

 

押井守監督は映画における音と音楽の重要性を説く。近年の作品では「スカイウォーカー・サウンド」に依頼するという徹底ぷりである。そして、音楽を担当するのは毎度おなじみ押井組の常連、川井憲次さんである。

 

音楽に関してはエンターテイメント的な色が濃かった『パト1』と比較して、『パト2』ではよりダークで重々しい雰囲気がある。ゆったりとしたテンポのオープニングの曲は、異国情緒のあるロケーションと合わさって前作との決別を印象づける。そして、「スクランブル騒ぎ」のシーンで流れるスコアがまた素晴らしい。

 

電話を切った荒川がアクセルを踏んで加速するのと同時に、何か悪い予感を感じさせるダークな劇伴が挿入されるのだ。

 

また、音の演出がユニークで面白い。たとえば、『パト1』から使われている「鳥の鳴き声」————オープニングの東南アジアのシーンでは、鳥の鳴き声が合図となって仏頭がブラックアウトする。「スクランブル騒ぎ」のシーンでは、ベイルアウトと表示される直前で鳥の鳴き声が響き渡る。荒川との通話を終えた後藤さんがシニカルな笑みを浮かべてブラックアウトする時は、鳥の飛び立つ羽音が聴こえる。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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また、荒川が後藤さん、しのぶさんを連れ立ってドライブする場面では、話題が「Mig25の亡命」に及ぶとジェット機のエンジン音が挿入されてブラックアウトする。そして、画面が明るくなった時には無音の「間」が生じる。この緩急の差が、セリフや映像では醸し出せないある種の感情を掻き立てる。

 

 

これとは逆に、後藤さんが警備部の会議室で考えにふける場面では、意図的に音を制限する演出がなされている。遠くのほうでしのぶさんと海法総監の応酬が聴こえ、独り言をつぶやく後藤さんの声は聞き取れないほど小さく絞られている。そして、しのぶさんが言い放った「それでもあなた方は警察官か!」という一言で、後藤さんは我に返るのだ。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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他にも、新帝都航空へ乗り込んだ松井刑事が襲撃される場面では、監視カメラの映像に機械的な効果音が添えられている。監視カメラの映像であれば、本来音声は聴こえないはずである。もっとも、最近の監視カメラは音も拾うものが多いが、『パト2』が公開されたのは1993年である。暗くて不鮮明な監視カメラの映像だけでは、スクリーンの大きさに耐えられないと考えたのかもしれない。いずれにせよ、この機会的な効果音によって襲われた松井刑事の痛みや衝撃が感覚的に伝わってくる。

 

リアリティーの獲得

 

『パトレイバー』シリーズはSFアニメとして強度なリアリティーを獲得している。人型歩行ロボットを最も合理的かつ現実的な理由で登場させるためには、工事現場で重機の代わりとして使うしかなかった。そして、その重機代わりの人型ロボットが引き起こす犯罪に対処するという名目で、特車2課ひいては98式AVイングラムは登場する。

 

因みに、『パト2』に登場するロードランナーとよく似たデザインのバスが中国で開発中だという。

 

だが、『パト2』に関してはレイバーは脇役でしかない。では、どうやって同じ質のリアリティーを担保するか————その方法とは「キャラクターとしての東京」と「リアルな台詞」だ。

 

キャラクターとしての東京

 

Google Mapのトークショーで、押井さんは「都市というのは軍事的な観点から設計されてきた」と語っている。パリもしかり、そのパリを模して設計された大阪 新世界もしかり、古代ローマ帝国も、そして日本の首都 東京だって例外ではない。

 

『パト1』ではロケハンによって東京の下町に流れる「開発から取り残されて停止した時間」を再現した。そして、『パト2』では「防衛的な視点から見た首都」を描き出す。本作で、東京の街は様々な表情を見せる。ミサイルによって爆破されたベイブリッジ、渋滞する高速道路、夜のビル群、河川と線路、戦場と化した街中————まるでキャラクターのように、東京の街並みは次々と装いを変える

 

クライマックスの舞台となる18号埋立地も、幻の新橋駅も、実際に現地を取材したからこそ説得力のある絵に仕上がっている。好奇心を刺激する「幻の新橋駅」は実際にあるらしい。

 

そして、表情豊かに描きあげた首都を防衛的な観点から見つめる存在は「鳥」である。「空を飛ぶものは、人間にとっては怖いものである」という押井監督の考えに基づいて、『パト1』から作中の至るところで使用されている。

 

機動警察パトレイバー2 The Movie

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防衛都市を攻撃する場合、空から攻めるのが妥当だろう。つまり、『パト2』における「鳥」とは、空から来る敵の象徴ではないのか。トラックの側面にも、映像プロダクションの壁にかかったポスターにも、そこのスタッフが呆然と見つめている画面にも、至るところで「鳥」が使われている。ポスターに書かれた「VOGEL」はドイツ語で「鳥」を意味する言葉である。

 

リアルな台詞: 素人とニュースキャスター

 

本作のリアリティーを補強する要素の1つが「台詞」である。府中の防空司令や、しのぶさんと会話する柘植学校の生徒、航空管制官などのモブキャラには素人の声優が起用されている。

 

個人的には、この演出がけっこう気に入っているのだが、どうやら評判は芳しくないらしく、ブルーレイやDVD版にはプロの声優によって吹き替えられたバージョンも収録されている。中でも防空司令の台詞、「南下しているぅぅ、FSを、すぐに引き返させろ」は独特の間があって、かなり好きだ。

 

現実におけるリアルと映画におけるリアリティーは違う。現実をそっくりそのまま転写すれば、リアリティーが獲得できるわけではない。映画は現実の複製ではない。だが、素人の声優さんであっても、プロの書いた台詞を読めば「それっぽい、ありえそうな」リアリティーを獲得できるのだ。

 

その逆に、テレビのニュースキャスターには現役のキャスターを起用している。爆破されたベイブリッジの報道や、治安出動に関する政府の緊急放送が真に迫った緊迫感を帯びているのは、これが理由である。また、ニュース原稿調の言い回しも、それに拍車をかける。

 

たとえば、以下のような言い回しは、いかにもニュースキャスターが言いそうな言葉遣いである。

 

「横浜ベイブリッジ爆撃事件に関して政府は特別調査委員会を設置し、真相の解明に全力を尽くすとの見解を示しました。」

 

「この時間は予定を変更して報道特別番組をお送りしております。」

 

「今回の要請について石川長官は、次のような政府の公式見解を表明しました。一連の自衛隊関連事件について、充分な検討を行った結果、もはや現在の警察力のみでは予測される最悪の事態に対応出来ないという判断に基づく物であり・・」

 

こういった細部に宿るリアリティーが積み重なって、『パト2』の世界観は現実と地続きになる。

 

「スクランブル騒ぎ」のシーンで飛び交う略語の正式名称は以下の通り。

 

  • 北部SOC : 北部航空方面隊の作戦指揮所 : Sector Operation Center
  • 中空SOC : 中部航空方面隊中部航空警戒管制団
  • 府中COC : 航空総隊作戦指揮所: Command Combat Operation Center
  • 百里 : 航空自衛隊百里基地
  • 百里204 中部航空方面隊 第7航空団 204飛行隊
  • 小松303 中部航空方面隊 第6航空団 303飛行隊

 

エンターテイメントを断ち切った『パト2』

 

押井節はエンターテイメントの上に乗せられることで、その真価を発揮する。『パト2』はTVシリーズ、OVA、劇場版1作目の流れを容赦なく断ち切った。明るく陽気なムードから一転して、まったく系統の異なる映画として製作された。

 

東京へと向かう道すがら、野明が遊馬に言う。「私、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない。レイバーが好きな自分に甘えていたくないの」————いつもの元気で溌剌とした野明とは思えない、暗いトーンの声で。

 

だが、これ以上に決定的なのは急加速してステアリングを切る荒川に対して、後藤さんが声を荒げて怒りをあらわにする場面だ。

 

「おい! 仮にも現役の警察官2人も乗せてるんだからさぁ!」

 

これまでの作品では見せることのなかった、感情を前面に出した後藤さん。これだけで、観客は『パト2』がこれまでの『パトレイバー』とは根本から異なることを察知するのだ。この振り切れた感じというか、温度差が『パト2』全体に流れている。

 

これまでエゴを抑えて、ファンに寄り添う努力をしてきた押井監督が、最後の最後で吹っ切れた作品————それが『パト2』である。メディアミックス展開という性格上、最初から押井節を効かせ過ぎると一般観客が離れてしまいかねない。そこで、じっと自我を抑えてなるたけエンターテイメントに徹しようと、押井監督は考えた。劇場版1作目も、伊藤和典さんの尽力も相まって何とかエンターテイメント作品に仕上がった。「もういい加減、好きなことやってもいいよね? スポンサーもお金設けたから良いでしょ? 文句ないよね?」————左手を首元に当てながら、そう呟く押井さんが目に浮かびそうである。

 

柘植行人=押井守

 

『パト2』の黒幕、柘植行人は押井守監督の分身である。『パト1』における帆場暎一が、押井さん自身の投影だったように。

 

『パト2』を構想するにあたって、押井監督は「1発のミサイルで東京を戦場にするにはどうすればいいか」と考えた。その理由は他でもない、東京のど真ん中に戦車を持ってきたかったからである。ジェームズ・キャメロン監督が「海底調査をしたい」というだけの理由で、映画史に輝くサブストーリー『タイタニック』を撮ってしまったのと同じノリである。

 

そして、本当にミサイルを1発撃ち込んだだけで東京の街中を戦場へと変えてしまった。幻の爆撃を演出してみせ、陸自の治安出動要請をこぎつければ、後は押井監督の独壇場である。思う存分、東京の街を破壊しつくだけだ。

 

NHKのアンテナをぶち壊し、警視庁の庁舎へミサイルをぶちかまし、通信網と橋を破壊することで東京の首都機能をダウンさせる。まさにやりたい放題である。

榊さんの自宅に立ち寄った後藤さんが言う台詞は、押井さんのことを言い表しているようにも聴こえる。

 

政治的要求が出ないのは、そんなものが元々存在しないからだ。情報を中断し、混乱させる。それが手段ではなく目的だったんですよ。

 

これはクーデターを偽装したテロにすぎない。それもある種の思想を実現するための、確信犯の犯行だ。戦争状況を作り出すこと、いや首都を舞台に戦争という時間を演出すること、犯人の狙いはこの一点にある。

 

時間と空間の演出こそ映画の演出である」とは押井監督の言だ。ともすれば、首都を舞台に戦争という時間を演出する犯人像は、おのずと押井監督とオーバーラップする。

 

柘植行人のモデルは軍事評論家の柘植久慶さんである。「柘植行人=告げゆく人」という言葉遊びになっている。

 

ラストシーンで逮捕された柘植が言う。


「もう少し、見ていたかったのかもしれんなぁ。 この街の、未来を」

 

東京を戦場へと変え、日本の平和意識へ大きな疑問符を投げかけた柘植行人は、いったいどんな未来を思い描くのだろうか。ひいては、押井監督はこの国の未来へどんな希望を抱いているのだろうか。

 

因みに、劇中でしのぶさんが「あの人も携帯電話の必要な人ね」と言う台詞があるが、あの人「も」という部分はおそらく押井守監督のことを指すのだろう。脚本を書いた伊藤和典さんは押井さんのご近所さんである。(現在はどうか分からないけれど)

 

SF映画を手がけていながら、押井さんは携帯電話を持たない主義を貫き通してきた。だが、ここ最近はスマホを手にする姿が確認されており、やはり時代の波には逆らえなかったのだと推測される。