Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

『攻殻機動隊SAC 2nd GIG』:壮大なスケールで描かれる国家規模のテロ事件

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 私のペンネームであるPatrick Silvestre(パトリック・シルベストル)。その元ネタとなっているのが『攻殻機動隊2nd GIG』だ。べつに商業化しているわけでもなし、まぁいいだろうという安直な考えから勝手に借用し始めてかれこれ6年ばかりが経った。

 

それほどまでに慣れ親しんだ名前だからこそ、Hush-Hush: Magazineでも幾度となく取り上げようと思った。いや、取り上げるべきだと思った。

 

だが、その度に万感胸に迫って筆を置いた。というのも、『攻殻機動隊』は現在の私の基盤を築いた、ひときわ思い入れのある作品だからである。

 

初めて『攻殻機動隊』シリーズに触れたのは、中学生の頃。神山健治監督のテレビシリーズに始まり、95年公開の劇場版を観て押井守監督という稀代のクリエイターを知った。

 

当時萌えアニメしか観ていなかった中坊の頭に、迫撃砲がぶち込まれた。そう、言うなれば旧世代型のOSが、中途をすっ飛ばして一息に3段階ほどアップデートされたような激震。

 

当時、さして学業の成績も振るわなかった中坊の私にとって、社会的テーマを主軸に展開されるSACシリーズのストーリーは、頭のエンジンをフル回転しても追っつかないほど難解に感じたものだった。SACシリーズを全て見終えてから、せめてもとの思いから社会科の授業だけは真面目に受けるようになったのは、今では黒歴史である。

 

そして、『攻殻機動隊』のシリーズがなければ、私はこれほど映画フリークになっていなかったと思う。私が敬愛してやまない押井守監督との邂逅もなかっただろうし、神山さんのエッセイ『映画は撮ったことがない』を読まなければ、映画のもつ魅力――フィクションの中に潜む真実――に開眼することもなかったはずだ。

 

それほどまでに、『攻殻機動隊』シリーズが私に与えた影響は計り知れないのだ。だからこそ、私ごときが尊大にこの作品を俎上に乗せてもいいのだろうか、という漠とした疑問が常につきまとった。

 

だが先月、約3年ぶりに『攻殻機動隊2nd GIG』を観直して、再び天啓に打たれた。

というのも、時代を経てもSACシリーズは輝きを失っていなかったからだ。初回放送から15年以上経っているにもかかわらず、色褪せない。いや、むしろSACシリーズを後追いするかのような動きを見せる現実世界の諸問題。

 

そして、なによりも、SACシリーズが纏う硬派でシックな装いが私の心を再び打ち震わせたのだ。

 

Spoiler Warning──ネタバレを含みます

 

 

ストーリー解説

 

招慰難民とは何ぞや

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

 

時は西暦2032年。第四次非核大戦終結から6年が経過している。大戦によってアジア各地では難民が発生。戦後の復興を担う安価な労働力として、日本政府はなし崩し的に難民を受け入れ、彼らの労働力を利用した。その数のべ300万人。

 

SACシリーズの世界観では、日本の5カ所に招慰難民居住区が点在している(北海道・関東・神戸・新浜・出島)

 

自らのアイデンティティーを固持しつつも、日本に帰化することは忌避する難民に対し、日本国民からは「税金の無駄遣いだ」との声もあがっている。また、安価な労働力によって失業率も高まっているとの見方もあり、難民問題は戦後日本が抱える負債となった。

 

こういった招慰難民に対する不満が高まっている中、そこに目をつけた人物がいた。合田一人《ごうだ かずんど》──内閣情報庁 戦略影響調査会議 代表補佐官

 

アニメ史上屈指の胡散臭さを放つこの男。目的は「日米安保の締結」 ──米帝にとって有利な条件で安保を締結するのが目的だ。その手段として「招慰難民問題」を利用した。

 

その方法は、「個別の11人」なる行動者を思想誘導ウイルスによって生み出し(合田の表現でいうと"プロデュース"となる)、国民と難民の対立をいたずらに刺激し混乱に陥れる、というもの。

 

また、同じ目的を持ち、合田に負けず劣らず胡散臭い高倉官房長官は、最終話で明らかになるように、合田との直接的な繋がりはない。劇中の表現でいうところの【スタンドアローン】な関係。

 

難民への救済措置「難民対策特別措置法」を廃案した茅葺総理に造反を企てるのが、高倉官房長官だ。

 

「前政権の解散総選挙を乗り切るためのお飾り」として首相の座に据えられた茅葺総理だが、そんな周囲の嗤笑をものともせず、「国連協調路線」を打ち出す。米帝の経済的疲弊が限界に達していると考える茅葺総理は、日本の放射能除去技術を以ってして日本主導による安保締結を望んでいる。

 

イシカワいわく「これまでの戦後民主主義路線に対する反動保守政権」だとか。たおやかな容姿にふさわしく、その言動はなかなか豪胆である。

 

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

 

茅葺内閣が取り組んだ「難民対策」として以下のとおり。

 

  • 難民受け入れの無期限停止
  • 難民居住区の段階的縮小
  • 難民帰化政策

 

『難民帰化政策』というのは、招慰難民を日本に帰化させることで労働人口を充填し、これによって少子高齢化問題に多少なりとも歯止めをかけようという政策。

 

また、帰化した難民への納税も義務付けることで、難民に対する国民の悪感情を緩和したいという思惑もちらつかせる。国外からは「体のいい人身売買」だとか揶揄されているらしい。

 

つまり、ざっくりとまとめると、こんな感じ。

茅葺内閣の樹立によって日本に対する米帝の影響力は弱まってしまった。だから米帝は考えた──国内で燻っている「難民問題」を利用して混乱を煽り、それに乗じる形で日本がピンチのところをヒーロー出現よろしく米帝が救い出してやろうじゃないか、と。

 

こうやって一席打つことで、日米安保を米帝に有利な条件で締結せしめんとする。これこそが、米帝──ひいては合田と高倉官房長官──の目指すゴールなのだ。

 

その茶番劇に一枚噛んでいるのが合田一人であり、そのさらに裏にはCIAのこれまた胡散臭い2人組──1stシーズン『密林航路にうってつけの日』(タイトルはサリンジャーの書籍からのオマージュ)で登場したCIA職員──が、薄ら笑いを浮かべて手を引いていたというのが内実だ。

 

合田一人は、米帝に協力する見返りとして米帝へ亡命した後の地位を約束されており、最終話のエレベーターのシーンはまさにその瞬間というわけだ。

 

個別の11人とは一体何だったのか

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

合田の思惑を体現するべく、難民と国民の対立を悪化させる片棒を担ぐのが『個別の11人』というテロ組織。その実相は、合田一人によって”プロデュース”された英雄である。

 

合田の言葉を借りるなら、「動機なき者達(国民)が切望し、しかし、声を大にして言えない事を代弁し実行してくれる行動者(英雄)」となる。発端は、2ndシーズン第1話で中国大使館を占拠したテロリストグループ。

 

そこに目をつけた合田が、思想誘導ウイルスをばら撒き、本来は一介のテロ組織に過ぎなかった『個別の11人』を、あたかも「難民解放」を謳う「個」の集団のように見せかけたもの。

 

オリジナルが不在であるがゆえに、その模倣者が出現する──スタンド・アローン・コンプレックス。つまり、「個別の11人」は合田一人によって作為的に生み出された「擬似スタンド・アローン・コンプレックス」だったというわけだ。

 

招慰難民居住区、電波塔上空を陸自の無人攻撃ヘリ「ジガバチ・アドバンス」が旋回する事件を機に国内で台頭し始める。「個別の11人ウイルス」の発症条件は2つ。

 

  • 義体化率が高いこと
  • 義体化以前、童貞であったこと

 

発症後は、パトリック・シルベストル(Patrick Sylvestre)の著書『国家と革命への省察 初期革命評論集』の中に幻の1篇が存在していると思い込む。パトリック・シルベストルのモデルは、三島由紀夫とフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユだと思われる。三島の『近代能楽集』は一度だけ読んだことがあるのだが、シモーヌ・ヴェイユの方はまだ読んだことがないので如何とも言い難い。

 

初期革命評論集の内容は以下のとおり

 

  • 第三身分の台頭
  • 支配からの脱却
  • 王朝の終焉
  • 社会主義への希求
  • 狂喜前夜
  • 神との別離
  • カストロとゲバラ
  • 虚無の12年
  • 原理への回帰
  • 個別の11人

 

ボーマいわく「なんてことはない、ただの評論文だ」とのことだが、その内容はどんなものなのか。劇中では電脳化している人しか読み取れないバーコードによる記述しか出てこないため、その内容は推測するしかない。

 

『攻殻機動隊SACシリーズ』の熱狂的なマニア──1stシーズン『チャット チャット チャット』で登場したラッフィングマン・ルームに集うフリークス達のような──が、検索エンジンに引っかからないようなネットの片隅でひっそりと、この架空の評論集を公開しているとしたら、なかなかロマンチックだよなぁ。

 

……という具にも付かない妄想を、中坊だった私が抱いていたのはここだけの話。

 

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

 

余談だが、チェ・ゲバラというモチーフは『攻殻機動隊SACシリーズ』の中で随所に散見される。1stシーズン第7話『偶像崇拝』では、幾度もの暗殺をものともせずジェノマ国の民主革命を導いた英雄マルセロ・ジャーティーが登場するが、これのモデルはおそらくチェ・ゲバラだろう。

 

また、2ndシーズン第2話『飽食の僕』──スコセッシ監督の名作『タクシードライバー』の香りがする尖ったエピソードだ──では、JBNN専属パイロットで帰還兵のギノの部屋にチェ・ゲバラのポスターが貼られている。2ndシーズンで、トグサがクゼについて説明するときは「南陽新聞あたりじゃ、難民街のチェ・ゲバラだって言われてる」というセリフが出てくる。

 

また、2ndシーズン後半で、少佐がクゼの「ハブ電脳」について言及する際にも過剰なアドレナリン分泌の一例としてマルコムXと共にゲバラの名が挙げられている。大義のために、利他的行動をとるアオイとクゼ──まったく異なるタイプの2人の英雄だが、思い返してみればチェ・ゲバラの人生そのものも、キューバを憂い自己を犠牲にする利他的な行動理念によって突き動かされていなかったか。

 

『攻殻機動隊』がきっかけとなって、高校生のときに「チェ・ゲバラ伝」を読んだのは今や私の黒歴史。

 

話を戻すと、「個別の11人ウイルス」に感染した者は「難民を攻撃することで彼らの蜂起を促すこと」を「奉仕」とみなして行動する。

 

そして、パトリック・シルベストルの思想にもあるように、「英雄の最後は死によって締め括られる」を体現すべく自ら命を断つのだ。つまり、合田一人によって都合のいいように利用された挙句に自害させられるという、なんとも不憫なことこのうえない人々なのである。

 

劇中のクゼいわく、シルベストルの『個別の11人』は五・一五事件を能楽と照らし合わせ、その一回性にこそ真実があると説いたのだとか。

 


「ただ一度の人生を革命指導者として生きるなら、それは至高のものとして昇華する。英雄の誕生はその死を持って完結し、永遠を得る」

 

パトリック・シルベストルも、ルーマニア革命に参加して命を落としている。

 

1stシーズンではJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が作品の枢要として登場していた。そして、2ndシーズンでは三島由紀夫を使う予定だったそうだが、利権関係などの「オトナの事情」のよって見送られ、止むを得ずパトリック・シルベストルなる架空の評論家をつくり出した。

 

難民問題、日米安保、右翼集団など、地上波アニメで扱うには危なっかしい題材を取り上げている2ndシーズン。リアリティの確保の意味でも、神山さん的には三島由紀夫を使いたかったのであろうことは想像に難くない。実際、個別の11人が互いの頭を切り落とす場面は、三島由紀夫の自決を彷彿とさせる。

 

国粋論的ナショナリズムを唱え、誰よりも日本の行末を憂いた三島由紀夫が、文字どおり決死の覚悟で駐屯地でふるった演説は、今なおYoutueなどで聴くことができる。だが、その甲斐むなしく撃ち落とされた首が週刊誌にばら撒かれたり、演説途中に野次が飛び交ったりで、結局お茶の間に話題を提供したきりで歴史の舞台から消えてしまった。この悽愴な最期も、『個別の11人』と被って見える。

 

まぁ、実際問題として、よしんば三島由紀夫を2ndmシーズンの枢要に据えたとしても、右傾団体から脅迫されるであろうことは間違いないように思う。

 

なかには、三島由紀夫ではなく、パトリック・シルベストルなる架空の人物に挿げ替えたことでメッセージ性が失われたとか、リアリティが欠けたとか言っている批評家もいるらしいが、そこは妥協するしかないのではと思う。

 

 

だって、「パトリック・シルベストル」ですよ。

 

言葉の響きも、姓名の組み合わせも、本当に実在しているようにしか思えないじゃないですか。

 

『攻殻機動隊2nd GIG』を観てから、Googleで「パトリック・シルベストル」を検索した人は大勢いるんじゃないか。かく言う私も、その一人なんだけれど。

 

限りなくリアルでありながら、その実フィクションだった──99%のリアルと1%の虚構。

 

これこそ、『攻殻機動隊』の醍醐味じゃないか。現実と地続きになった、手を伸ばせば届くようなフィクション。実在しているように見えながら、実際は創作上の架空の人物である「パトリック・シルベストル」こそ、その象徴なのではないか。

 

勝手にペンネームとして使っておいて、不遜に聞こえるかもしれないけれど、結果的に「パトリック・シルベストル」という架空の人物設定は正しかったと思う。

 

12話『名も無き者へ』で邂逅した個別の11人のメンバーが、決起へと向かう道すがらで自らが行った「奉仕」について自慢し合う場面は、個人的にかなりお気に入りのシーン。

 

「時にお前はどのような形で奉仕を?」とか言いながら、男たちの口から飛び出すのは物々しい所業の数々。なかでも、クゼが「茅葺を暗殺しようとした」と言った瞬間の車内のどよめきたるや。

 

「世論に与えた衝撃では我々も負けてはいない」のセリフを聞くたびに、「いやいや、どこで張り合っとんねんw」とセルフつっこみを入れてしまうのだけど、チャンネル33に映った彼らの姿を観た瞬間にそんな諧謔はすっ飛んでしまう。

 

以下、個別の11人の声明。

 

聴け、名も無き者たちよ。
我ら個別の11人。個が個のままに集い、世界を刷新していく者だ。もはやこの国はシステムとしての寿命を終えようとしている。難民による自爆テロ、政治不信、諸外国からの軋轢。この国を取り巻く情勢を、集合体となりし「個」が救うのだ。目覚めろ、名も無き者たちよ! そして、システムの一部たれ!!

 

12話後半の驚天動地の展開は本当にすごい。

3つのシーンがクロスカッティングで進行し、それぞれが互いに緊張を高めつつクライマックスの集団自決へと向かって収束していく。

 

パズとイシカワが「個別の11人ウイルス」を解析するシーン。少佐たちを乗せたティルトローターが、長崎の戦没者慰霊塔へ向かうシーン。そして、個別の11人が決起するシーン。

 

『ダークナイト』でジョーカー登場、裁判長の暗殺と警察署長の暗殺、この3つを同時に展開したクリストファー・ノーランもびっくりなほどの緊迫感。初めて12話を観たときは、決して誇張ではなく椅子から転げ落ちそうなほどの衝撃を受けたのを覚えている。

 

そして、カメラが回っている真っ只中、互いに頭を切り落とした個別の11人の中で、唯一自らの意志を保った男がいた──救世 英雄:クゼ・ヒデオ


この男こそ、合田一人の計画の番狂わせであり、本物の英雄だったのだ。

 

クゼ・ヒデオという特異点

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

 

合田による思想誘導ウイルス『個別の11人』に感染していながら、唯一ウイルスの分離に成功したクゼ・ヒデオ。PKF仕様の特殊な義体を操り、難民救済を希求するクゼは、ストーリー最終部で明らかになる壮大な構想を体現すべく行動する本物の英雄だ。

 

まず、クゼの経歴についてまとめてみる。


2024年、PKF隊員として朝鮮半島へ渡ったクゼは情報に踊らされて自国を滅ぼした難民たちを目の当たりにして多大な衝撃を受ける。

 

口当たりのいい情報だけを摂取した結果、自国を壊滅させ混沌を生み出した難民たちは、そのことに対しあまりにも無自覚かつ無責任すぎた──水は低きに流れたのだ。

 

失意の中、クゼは報道関係者にアサルトライフルを手渡し、忽然と姿を消してしまう。幼い頃に全身を義体化したクゼは、心身の不一致を抱えて続けていた。そんな折、難民たちと触れ合い、生きる希望を分け与えてもらう。

 

この頃から、クゼのカリスマ性は発揮されており、クゼの周りには常に人が集まっていた。違和感なく難民たちに溶け込み、彼らを懐柔するクゼこそ本物の英雄の素質を持っていたと言えるだろう──自身は権能の傘に隠れながら、プロデュースすることでしか英雄たり得なかった合田とは違って。

 

そして、クゼは難民を救済するべく革命家になった。難民を救済するという剛直な意志があったからこそ、『個別の11人ウイルス』に感染していながら、ウイルスを分離することに成功したのだ。

 

集団自決から逃れたクゼは、ロシアから核を買い付け、核武装することによって出島を独立国として日本政府に認めさせようと暗躍する。だが、ウイルスを作成した合田は「こういう感染例もあるんだな」とか余裕綽々な様子。

 

というのも、クゼという「不確定要素」を使って当初の目的を完遂しようとプランを変更したからだ。

 

択捉での核取引に介入し、偽物の核をクゼに与えた挙句、九州の大停電まで引き起こしてクゼの逃亡をバックアップ。さらには、その大停電さえも難民が引き起こしたかのように演出し、自衛隊の出動を促す。

 

すべては、米帝の原子力潜水艦に核弾頭を発射させるために。結局のところ、クゼは合田にとって都合の良いように振り回されてしまう。

 

だが、クゼには壮大な思想があった。


それは、難民の記憶とゴーストをネット上に移し、ネットと融合した新たな生命体として進化させようというもの。タチコマは、「ネットに記憶を保存したとしても、ゴーストは宿らないのでは?」と指摘している。だが、後の『ソリッド・ステート・ソサエティー』でそのタチコマの推測は誤りであったことが、タチコマ自身のゴーストによって証明されている。

 

というのも、2ndシーズンクライマックスで米帝の核弾頭を阻止すべく、自らのAIを搭載した衛星をぶつけたタチコマは、少佐の指示によって「難民の記憶とゴーストをアップロードするため」に作成しておいたネット上の「可処分領域」に自らの記憶を残していた。『ソリッド・ステート・ソサエティー』では、少佐の手によってその記憶をサルベージすることで「ゴースト」を取り戻しているからだ。

 

なんだか、攻殻機動隊らしく複雑さを帯びてきたけれど、話を元に戻すと……


クゼの思想──難民の記憶とゴーストをネット上に遷移することで、ネットと融合させ、種としての進化を遂げる。


これこそ、クゼにとっての「革命」だった。

 

ここで疑問が頭をもたげる。「え、ちょっと待って。それって一か八かの賭けじゃないの? もしネット上に遷移した記憶にゴーストが宿らなかったらどうするの?」

 

そう、クゼにとっての「革命」は難民にとっての救済でもあると同時に、復讐でもあった。


ここでクゼの経歴を振り返ってみると、難民たちと触れ合って生きる希望を授かる前、そもそもの発端はPKF派遣に伴って目の当たりにした難民の惨状にある。

 

自分にとって口当たりのいい情報しか摂取せず、自国を食い潰した難民のしどけなさにクゼは衝撃を受けた。だからこそ、クゼの「革命」によってネット上に上げられた難民たちの記憶にゴーストが宿らなかったとしても、それは自分たちの招いたことだ、と。

 

つまりは、自分たちの無自覚が招いた帰結だと、クゼは考える。

 

なんとも惨烈な男だと思うかもしれない。

 

だが、革命家とは元来こういった二面性を持ち合わせているものだ。自らが立脚する「思想」のためならば、どんな艱難辛苦も乗り越える。そのためならば犠牲もいとわず、一にも二にも「思想」の実現に向けてひた走り、その結果革命家に追従してきた大衆が混沌に陥ろうと構わない。

 

この個別主義的な発想こそ、革命家のイコンではなかったか。難民の独立と自由、意思の尊重を声高に主張しつつも、難民たちの全体主義的な趨勢にのっとって行動する──クゼ・ヒデオこそ、真の英雄にして革命家でありながら、紛うことなき完全な個別主義者なのである。

 

水は低きに流れる

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

 

荒巻課長の行き別れの兄とクゼが、蜂起後の難民居住区で語らうシーンがある。寡黙なクゼには珍しく、心中を吐露するこの場面を、私はたいへん気に入っている。そこで言及されるのが「水は低きに流れる」という概念。

 

クゼはネット上で自らの電脳を解放し、常時300万人の難民と繋がっている──ハブ電脳──の持ち主である。

 

劇中ではカリカチュアライズされた電脳空間で、その様子が描かれているが、冷静に考えてみてほしい。常時300万人もの難民と常に繋がっているということは、身近な喩えで言うとTwiterのフォロワー300万人からのリプライの嵐に常に応じ続けるということと等しい。

 

いくらデバイスの制約がなくなって、現実世界の肉体を動かしながらネットに接続できるとしても、これだけの「個」の意志に応え続けるなんて尋常ではない。

 

フランソワ・トリュフォー監督の映画『アメリカの夜』で、トリュフォー演じる映画監督が役者やスタッフから「これはどうすれば?」「このシーンのここはこれでOK?」とか質問の嵐に遭って、辟易している様子があるのだけれど、クゼの場合はそれが300万人。

 

トリュフォーの比じゃないですよ。

 

クゼの電脳にアクセスした少佐いわく、常人の致死量にあたるアドレナリンの分泌によって──言い換えれば、超人的な意志の力によって──クゼは難民からのアクセスに応じているという。

 

陸自の電波妨害によって、ネット接続が遮断された途端に統一性を欠き、逸った行動に出始める難民たちを見てクゼは「水は低きに流れる」とこぼす。孟子の言った言葉「水は低きに流れ、人は易きに流れる」が原典であるこの言葉は、安易に流される大衆(マス)をいみじくも言い当てた言葉だ。

 

昨今、話題にのぼることが多いフェイクニュースがそのいい例だ。「スピルバーグ監督がネットフリックスをアカデミー賞から追い出した」とか、「成宮寛貴が芸能界に復活」とか、有名どころではフェイクニュースを信じた某国会議員がそれを根拠に敵対政党を批判したり……枚挙にいとまがない。

 

攻殻機動隊1stシーズン最終話で、アオイが言っていたように「この社会にはそういった出来事を引き起こす装置が内包されている」のだろう。

 

人は、大衆は低きに流れる。人は良くも悪くも環境に左右される生き物だ。人間を形作るのは習慣と環境に他ならないし、それ故に人は他者や集団から影響を受けやすい。ありもしないフェイクニュースを信じ込むのも、本人がそう望んでいるからだし、周囲が同調しているからそれを追認しているだけにすぎない。

 

そういった大衆心理を嘆くクゼの言葉には、どこか哀惜の色が滲んでいる。

 

うん、やっぱり何度観ても良いシーンだ。

 

中華風のお茶を入れる小道具も、「水は低きに流れる」を象徴していて面白い。というか、あの急須の名前知ってる方いません?

 

素子の淡い記憶

 

SAC・2nd GIG・SSSと、どれをとっても面白い攻殻機動隊SACシリーズ。

 

青臭い正義感と劇場型企業テロの組み合わせという最高に「クール」な1stシーズンも面白いし、『東のエデン』でも取り上げられた少子高齢化問題に果敢に切り込んだSSSも面白い。

 

どれも甲乙つけがたいのだけれど、強いて言うなら私は僅差で2nd GIGに軍配を上げる。というのも、超人的な存在として描かれることの多かった草薙 素子が一人の人間として、女性として描かれるからだ。

 

イシカワからは「メスゴリラ」とあだ名され、バトーさんからは「素子ぉぉぉぉぉぉ」と思慕される少佐。その生い立ちが明かされるのは、2ndシーズン第11話『草迷宮』が初めてのこと。

 

1stシーズンでは、幼い頃義体がうまく扱えずに人形を潰したことがあるというエピソードが軽く触れられるだけで、少佐という超人的な存在がいかにして生まれたのかは謎のままだった。

 

クゼの生い立ちと共に語られる少佐の過去は、折り鶴をめぐって明らかになっていく。航空機の墜落事故によって、奇跡的に助かった2人の子供──その2人こそクゼと少佐だった。

 

茅葺総理を暗殺しようと寺院へ向かうクゼの運転席にも、折り鶴がぶら下がっていたし、『草迷宮』で老婆の話を聴きながら少佐が手慰みに折っていたのも鶴だった。そして、クゼの電脳に接続した後の少佐は、ぼんやりと考えを巡らせるとき、まるで子供のように親指の爪を噛み始める。

 

子供の頃の淡い記憶──片手で鶴が折れるよう、懸命に練習したからこそ少佐は世界屈指の義体遣いとなった。

 

いわば、幼少期の少年との記憶は、少佐にとってのアイデンティティーであり、ゴーストを形成する基盤でもある。超人的に見える少佐の最も脆い部分──それがチラッと垣間見えたとき、公安9課の「少佐」がとつぜん「素子」に見え始める。

 

「あぁ、ふだんはそんなところ微塵も見せないけど、少佐も一人の人間だったんだな」と思えるから、これまで雲の上のような存在だった少佐が、少し身近に感じられるからこそ、私は2nd GIGが最もお気に入りなのだ。『007 スカイフォール』で、幼い頃からの私のヒーロー、ジェームズ・ボンドが落ちぶれて一人の人間として描かれた時に感じた、あの親近感に近いものがある。

 

神山健治監督の『東のエデン』でも、2011年に11発目のミサイルが航空機に着弾しており、それによって乗客乗員236名が死亡する大惨事が起こっている。この時、奇跡的に救出されたのは男女2名の6歳児という設定。

 

閑話休題。SACの設定では少佐は2006年生まれということになっているから、2ndシーズンでは若干26歳ということになるわけで……


いやはや、それにしても深沈とし過ぎやろ……

 

合田一人:自己嫌悪と自己顕示欲とコンプレックスの塊

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

 

「かく言う私も童貞でね……」で一躍”時の人”となった合田一人。


アニメ史上屈指の曲者であり、手強いヴィランだ。生死をさまよう事故に遭遇し、顔の半分に凄惨な傷を負ったが、あえてそのまま残している。劇中、防衛庁時代の合田が写真で登場するが、なんの変哲も特徴もないサラリーマンといった風情。

 

だが、大学時代の卒業論文では「プロデューサーとしての英雄論」を唱え、その内容にはイシカワも呻吟するほどである。

 

米帝と協働して、日米安保を締結しようと暗躍する合田だが、彼の動機は一体何だったのだろうか。米帝への亡命と、それなりの地位を約束されていたと劇中では説明されているが、合田ほどの手練れがそれだけの理由で米帝に尻尾を振るとは考えにくい。

 

私が思うに、合田一人という人物は、自己嫌悪と自己顕示欲、コンプレックスの塊だったのではないか。

 

「個別の11人ウイルス」の発症条件に、わざわざ「義体化以前、童貞であること」という因子を組み込むあたりからも想像がつくように、合田一人はソシオパスなのだ。

 

劇中では、「私には、個に対する強固なまでの耐性があった」と言っているが、これも裏を返せば、誰からも見向きもされず相手にもされてこなかったととれる発言だ。

 

多国籍企業ポセイドン・インダストリアルに入社し、放射能除去技術「日本の奇跡」をプロデュースした後、防衛庁に入庁。存在感がないと言われるほど、合田には「華」がなかった。自分には英雄たる素質、カリスマ性や求心力がないからこそ、英雄をプロデュースする側に回ったのだろうが、そこで止まらないのがこの男のエゴである。

 

ありったけの自己顕示欲でもってして、英雄をプロデュースしておきながらその存在をひけらかしたくてしようがない。だからこそ、9課の面々にこれでもかと存在を誇示するし、わざわざ「個別の11人」に大仰な最期を用意したりもする。そもそも、英雄たる条件として「童貞であること」を組み込んでいること自体が、合田のコンプレックスの現れだろう。

 

事故によって不器量になる前は地味すぎて、事故後はその面妖な面構えが災いして、女性とは無縁の人生を送ってきたのは想像に難くない。

 

プロデューサーとして裏方に徹するように見せかけながら、そのじつ、自身の存在を誇示してたまらない、強権を傘に着た強欲な男──まるで、すべてが自らの思い通りにならないと気が済まない悪ガキ大将のような尊大さ。この複雑にして、どす黒い男こそ、SACシリーズで最も手強いヴィラン「合田一人」なのだ。

 

社会性:現実との結節点

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

攻殻機動隊SACシリーズの最大の魅力、それは現実と地続きになったリアリティーだ。テレビ番組、新聞、インターネットなど、SACシリーズのストーリーには随所にこういった「社会性」が組み込まれている。

 

笑い男事件のオリジナルは、朝のニュース番組の気象情報という「お茶の間」とリンクした設定になっているし、後の警視総監暗殺予告事件では、記者会見という「ライブ感」が青天の霹靂に拍車をかける。

 

さらに、2nd GIGでは『そこまで言って委員会』のような過激な討論番組が登場し、「個別の11人」が集団自決する場面は、やはりライブ映像が使われている。

 

アニメを見ているということは、言わずもがな、観客である私たちはPCのディスプレイやテレビ画面の前に座っているということになる。目の前にあるディスプレイの中で(いくらフィクションとはいえども)ニュース映像が流れれば、これをリアルと言わずして何と言おうか。

 

とりわけ、1stシーズンの「天気予報の最中におっ始まる犯罪」は、朝のニュース番組という家庭的な空間に突如として犯罪がぶち込まれるという衝撃が、ひしひしと伝わってくる。

 

初めてSACシリーズを観たとき、中坊だった私は「こいつぁすげぇや」と目を輝かせた──それこそ、笑い男事件の模倣者のように──ものだった。


また、先に取り上げた2ndシーズンの「衆人環視の只中で起こる集団自決」は、その圧倒的なパフォーマンス性も相まって、観客の頭の中にいくつもの疑問符が浮かび、混乱のうちにエンドロールが流れはじめるという凄絶な展開。

 

フィクションの中であるはずなのに、まるで「生」で見ているかのような臨場感。これもひとえに、「テレビ」「ニュース」という社会的な要素を巧みに使った演出のなせる業だ。

 

合田一人が、怪しげなオフィスで新聞のスクラップをつくっている描写も面白い。あれだけ高度に電脳が発達した世界で、あえて紙の媒体にこだわるというだけでも酔狂だが、そのうえ記事を切り抜いてバインダーに貼っつけるのだから、この行動だけでも合田の奇矯っぷりが見て取れる。

 

今では、新聞各紙もデジタルに移行し、ユーザーも情報収集はEvernoteなどのウェブ上のスクラップに乗り換えて久しい。かつては新聞記事をスクラップするための分厚いバインダーなるものも売っていたけれど、今はどうなっていることやら……

 

攻殻機動隊SACシリーズは、テーマもさることながら、こういった「社会性」をふんだんに取り入れているからこそ面白い。各話のエピソードは23分くらいで、これだけの時間にストーリーを進めようとすると、悠長に世界観を見せている余裕なんて毛ほどもない。

 

だらこそ、ニュース映像やテレビ番組といった社会的な要素、現実との結節点を入れることによって、画面に写っていない部分の世界観をほのかに提示してくれるのだ。

 

また、事件が起きるたびにニュースやテレビによって世論の反応が示されることで、刻一刻と状況が変化していること、フォーカスの当たっている公安9課以外の第三者も何らかの反応を示していることが想像できる。

 

SACシリーズにおいて、テレビ映像やライブ感によってもたらされる臨場感とその恩恵は、計り知れないものがある。

 

欧州の難民問題

 

SAC2ndシリーズ放送から10年後の2015年、欧州での難民問題が話題になった。中東、アフリカ諸国から押し寄せた難民が、ヨーロッパ諸国へ雪崩れを打って押し寄せ国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、その数のべ100万人だという。

 

対応に追われたEU各国は、移民の流入を抑えるべく国境審査を再導入するなどして、事態を遅滞させようと目論んだ。その結果、各国の国境付近には難民キャンプが出来上がり、入国審査の降りない難民たちが行き場もなく、かといって仕事もなく溢れ返ってしまった。

 

イタリアのマッテオ・レンツィ首相は移民仲介を現代の「奴隷貿易」だと非難し、ムルタのムスカット首相は難民船の沈没事故を「悲劇だ」と述べた。

 

フィクションの中だったはずの難民問題が、突如としてその姿を現し始めた。まるで、こうなることを予見していたかのような『攻殻機動隊』シリーズは、原作も含めて時代を先取りした作品だと言えるだろう。

 

大衆と個:並列化の果てにあるもの

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©︎士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会

すべての情報は、共有し並列化した時点で単一性を消失する」──これは1stシーズン最終話のセリフだ。


これこそが、スタンド・アローン・コンプレックスという現象の本質だ。

 

通俗的な例えかもしれないけど、Twitter における「パクツイ」問題が現代人にとって最も身近なスタンド・アローン・コンプレックスの一例だと思う。

 

たびたび問題になる「パクツイ」──いざ拡散してしまえば、元のツイートなんて誰も気にしない。

 

激発した感情に任せたリツイートが「パクツイ」を流布し、それを見た誰かが今度は自分のツイートとして、それを投稿する。そうやって際限なく、「パクツイ」は広がっていく。

 

爆発的な勢いで伸びたパクツイは、いつしかオリジナルなくして勝手に一人歩きし始める。誰も、元々そのツイートが誰のものなのかなんて気にもしない。こういった「パクツイ」は宣伝まがいの、「面白動画厳選集」やら「恐怖映像Bot」といった動画関連のアカウントにやたら多い。

 

 

2ちゃんねるにおけるテンプレ(お前、それサバンナでも同じこと言えんの? とか)も、これと同じ顛末をたどる。このテンプレとなる「元ネタ」を最初に誰が投稿したのか、その人のIDなんて誰も知らないし、興味もない。ただ、どこからともなくテンプレは現れて、いつしかネットミームとして定着していく。

 

そもそも、個人の価値観やら考え方だって、その基盤となっているのは、元をたどればどこかの誰かさんの考えに行き着くわけで。

 

そういった名前も覚えてない、もしくは意識すらしていないうちに摂取した諸々が、個人の見方や価値観を形成している。それは、どこかで読んだ本からもしれないし、たまたまバラエティ番組で芸能人が言った発言内容かもしれない。もしくは、無意識のうちに家族や友人が言っていたことかもしれない。

 

そして、その家族や友人をさらに遡れば、最終的にはプラトンやらアリストテレス先生のところにまで、はたまた聖書やメソポタミア神話にまで行き着くかもしれない。つまり、情報というものは「誰が言ったかではなく、何を言ったか」──その内容だけが伝播して拡散していく性質を持っている。

 

どんな情報も、それを誰かに話したり共有したりした時点で単一性を失ってしまう。だからといって、一生その情報を誰にも話さなければ、そもそもそんな情報は存在しなかったということになる。このパラドックスこそ、情報の性質そのものであると私は考える。

 

つまり、情報というのは「所有すること」に意味は無くて、それを「共有すること」でしか価値を得ない。そうやって共有されて初めて、情報は他の情報と結びついて、新しい価値を生み出す。

 

小島秀夫さんがエッセイ『私の愛したMEMEたち』の中で語ったように、ME(個)とME(個)を繋ぐこと──その連結の果てにあるMEME(集合)は、また新たなMEを作り出す。誰かから受け継いだバトンを、他の誰かに渡す──生きるとは、そういう行為の積み重ねなのだと私は思うのだ。

 

1stシーズンで、笑い男の模倣者たちが引きも切らず出現したとき、薄暮に染まる空を仰いで少佐は言った。


すべてが、同じ色に染まっていく」──それは誰にも止めることのできない情報の性《さが》であり、個と個の並列化の渦中で私たちは生きているのだ。

 

SACとは何だったのか

 

スタンド・アローン・コンプレックス:オリジナルの不在によって、オリジナルの模倣者を生み出す現象


1stシーズンでは、青臭い正義心を掲げ、大企業と孤高に渡り合う「笑い男」が社会現象となることでそれを活写していた。2ndシーズンでは、合田の思想誘導ウイルスによって引き起こされた「擬似スタンド・アローン・コンプレックス」が、国民と難民の対立を煽った。

 

では、スタンド・アローン・コンプレックスは、攻殻機動隊SACシリーズの世界観──高度に電脳が発達し、義体化が普及し、ゴーストの存在によってしか自身のアイデンティティーを定義できない世界の遠い話なのだろうか。

 

SACシリーズを観た当時は、ケネディ大統領を暗殺したのは自分だと主張する模倣者の存在、第2のリー・ハーヴェイ・オズワルトになりたい手合いがこれに近いと思っていた。だが、昨今頻発するイスラム系過激派組織のテロをニュースで見るたびに、その凄惨さに閉口すると同時に、SACを思い出してしまう。

 

9・11テロを機にその存在を世界に知らしめたイスラム系テロ組織。10年後の2011年に、アルカイダの最高指導者ウサマ・ビン・ラディンが殺害された。そして、今年(2019年)には、ISILの指導者バグダーディーが殺害されている。

 

最高指導者を失っても、世界各地からテロは一向になくなる気配はない。求心力を失ったテロ組織は、壊滅するどころかむしろ憎悪をたぎらせて復讐の機会を虎視眈眈と狙っている。あまつさえ、アメリカ国内でさえイスラム過激派の思想に染まって、自国でテロを行う輩もいる。

 

どうして、イスラム系過激派組織は衰退しないのか。むしろ、その思想を拡大していくのか。

  

最高指導者を失っても、つまりオリジナルを失っても彼らの組織が一枚岩なのは、その思想に染まった模倣者が後を絶たないからではないか。テロ組織は、機関誌やらSNS、ウェブサイト上で活発に宣伝活動を行い、今もその思想を啓蒙し続けている。

 

イギリス、アメリカ、フランス、カナダ、ロシア……イスラム過激派に攻撃を受けた国は数知れない。冷戦下のように、目に見えていた敵国は、いつの間にか姿なき「個」へと変化してしまった。

 

いまや、彼らの思想に染まった人物が、どこにいるのか、どこから湧いてくるのかすら分からない状態にある。勝手に思想だけが一人歩きしはじめ、イスラム圏を超え、海を渡ってその思想に染まった「名も無き者たち」が世界各地でテロを巻き起こす。

 

私たちは、人類史上もっとも「個」を意識する時代に突入している。攻殻機動隊SACシリーズで描かれた一連の現象は、決して遠い世界のフィクションではなく、どことなく現実と地続きになった、そんな感じがぬぐい切れないのだ。

 

まぁ、内省してみれば、その『攻殻機動隊シリーズ』に影響を受けて、「Patrick Silvestre」なるペンネームを勝手に借用している私自身が、スタンド・アローン・コンプレックスという現象の際たる例なのかもしれないけれど。

 

 

 

”ネットは広大だわ”